解体新書(部分) 杉田玄白ら訳、小田野直武画 一冊(序図) 安永3年(1774) 国立大学法人東京医科歯科大学図書館 【全期間展示】 |
そんな中、このプレミアムトークの案内がきたのです。これまでにブログやSNSで宣伝に協力した人優先ということで、申し込みにはこれまでこのブログでで紹介した記事を列挙して猛烈アピールしました。講師が田中優子先生だし!
効果があったか、招待状がきたので行ってきました。
今回、会期の3ヶ月近く前にこのプレス向けのイベントが企画されたわけですが、それはこの展覧会のキーパーソンである下記の皆さんからぜひ広めたいということで開くことになったとのことです。
- 高階秀爾氏(美術史家、大原美術館館長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長
- 河野元昭氏(京都美術工芸大学学長、静嘉堂文庫美術館館長、秋田県立近代美術館名誉館長)
- 田中優子氏(法政大学総長)
高階秀爾氏からはその時代の文化的な背景の話がありました。
江戸時代鎖国をしていたとはいえ、ものの交易はあり、それに伴い文化的な交流もあった。ただ、宗教的なものは拒否されていたので、宗教色の弱いオランダが交易の対象となっていた。このためオランダの絵画は、宗教画がなく、また王政ではなく市民社会中心だったため王侯貴族を描く人物画もなかった。それら以外のもの静物画、風景画が中心であった。これらは観察して描くものであり、日本でも博物学的な関心が高まっていたのと呼応する。そのころ吉宗は洋学を解禁し、絵も積極的に購入していた。平賀源内が活躍し、博物図譜の流行、解体新書に繋がる ...
当時のヨーロッパ文化と日本の文化の関係が「今だからこその江戸美術」の中心的なテーマだったので、高階氏の話はすっきりと理解できました。
田中優子氏のお話は平賀源内を軸に構成されていました。
当時各藩は藩内の資源を活用し産業を興すことを求められていた。平賀源内は脱藩しており、フリーランスとして各藩の鉱山開発を請け負っていた (本来の意味の山師ですね)。秋田も鉱山開発の目的で訪れている。その後、角館に住んでいた小田野直武を呼び寄せている。これは実は秋田藩が直武に要請したものだが、秋田藩が任官し江戸に送っているにもかかわらず、江戸では藩の江戸屋敷ではなく源内の家に住み着いていた。そこで解体新書の挿絵を描かせるわけだが、解体新書の後、自分の独自の絵を描き始めた。陰影画法による絵が描かれている (遠近法はすでにあった)。「児童愛犬図」で描かれている子どもは中国、犬は洋犬、窓は日本と、画法も含め複数文化の融合になっている。安部公房のクレオール論で、「秋田蘭画はクレオール」と位置付けている ...
田中優子氏は、後の質疑応答の時間で、幕府が各藩の産業育成を促したことを、16世紀末から始まったグローバリゼーションのなかで幕府がどう生き残っていくかというコンテキストから説明してくださいました。これまで単独で存在していた色々な知識がだんだん繋がってくる、そういう知的興奮を最近感じます (今頃かよというツッコミはおいといて)。
河野元昭氏のお話は解体新書から始まります。
解体新書の表紙は、なかの挿絵と違って、同じような構図だが翻案になっている。男性は手で隠している。中の挿絵は敷き写し。トレーシングペーパーのような薄い紙で元の図を模写した。元の「ターヘルアナトミア」が銅版画であるのに対して、「解体新書」は木版画。この写した紙から版を起こすことになる。源内の師事を受けて1年で解体新書しており、現在は以前から直武の才能を知っていたと思われる ...
銅版画で濃淡が出せるところを、木版だとハッチングによって濃淡を出すことになります。この違いも興味深いところです。
重要文化財 不忍池図 小田野直武筆 一面 江戸時代 18世紀 秋田県立近代美術館 【展示期間:11/16~12/12】 |
最後の締めくくりとして「直武が担っているものを感じて欲しい。直武をスターにしたい」という言葉がありました。それぞれの思いが詰まった、興味深い2時間でした。
記念撮影セッション |