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2020/06/07

"Black Lives Matter" の訳が「黒人の命は大事だ」に違和感

全米で "Black Lives Matter" の声が沸き上がっている。

HuffPost 2020/5/31『#BlackLivesMatter』企業も黒人差別に抗議、力強いメッセージ続く Netflix「私たちには声を上げる義務がある」
毎日新聞 2020/6/6 巨大な黄色文字で「BLACK LIVES MATTER」通り ホワイトハウス前に

この "Black Lives Matter" の日本語訳は「黒人の命は大事だ」とされていることが多いようだ。

しかし、そうすると「黒人以外の命は大事ではないのか」とか「本来 "All Lives Matter"であるべきだろう」という声が上がって来る。

これは "matter" の日本語訳を「大事だ」としていることに起因していると思う。

新英和中辞典 "matter"
動詞 自動詞[しばしば否定・疑問文で] 問題となる,重要である 《★【用法】 進行形・命令文にはならない》.
What does it matter? それがどうしたと言うのだ(かまうものか).
It doesn't matter a bit if we are late. 遅くなっても少しもかまわない.
Nothing mattered to him. 彼には何がどうなってもかまわなかった.
というように、確かに「重要である」はあるのだが、否定形で使われることが多いということ考えると、否定形 "don't matter" (どうでもいい) の否定「どうでもいいなんてことはない」と訳すべきものだと思う。

この "matter" の使い方は、マイケル・ジャクソンの "Beat It" で覚えた。
It doesn't matter who's wrong or right.
誰が正しくて誰が間違っていようと関係ないさ
(対訳:内田久美子 (ライナーノーツより))
"don't matter" (どうでもいい) の否定とみることにより、これまでは "Black lives don't matter" という状態だったということを認識できると思う。そして "All Lives" に対して否定している訳ではないということを理解いただけると思う。

参考: 以下では"Black Lives Matter" の訳を「黒人の命も大切」としている。本来の意味を伝えるには、この「も」ということがポイントだろう。
Harpers Bazaar 2020/06/03 なぜAll Lives Matter(すべての命が大切)」と言うのをやめる必要があるのか

2020/04/05

パンデミックと人権 (3) 様々な差別

この新型コロナウイルス肺炎 (COVID-19) の蔓延に伴い、様々な差別が浮き彫りになっている。

人種差別・民族差別

新型コロナウイルスが最初に問題になったのが中国で、このため中国人、さらには欧米人には区別がつきにくい日本人も差別にあっている。

 一般論は怖い。「中国人は」「大阪人は」「名古屋人は」、あるいは「白人は」「女は」「おっさんは」と属性でひとくくりにするのは、そう語る人自身の過去の残念な体験や、意地の悪さを映し出すだけなのに簡単には改まらない。特にこの新型コロナウイルス禍では、一般論好きの人たちがにわかに元気になり、差別と呼ぶのも恥ずかしいような無知、偏見をさらし始める。
自分の「外」と「内」を分け、「外」を排除するのは、 自分を守るための防衛本能から来ているところがあるだろう。しかしそれを起因する属性以外に広げることと、その「外」に対して攻撃を加えることが差別になる。ここで「起因する属性」というのは「新型コロナウイルスに感染しているか否か」であって、アジア人か否かは無関係だ。また、感染する人から距離を置けばいい話であって、攻撃する必要はない。

しかしそういう差別意識は、人はだれしも持っているものだろう。なくすのが難しければ自制して表に出さないのが、これまで人権重視が人間の共通の価値観であることを学んできた教養によるものだろう。しかしその自制は非常事態では忘れられていく。

その差別意識は簡単に利用される。トランプ大統領が『中国ウイルス』と呼んでいるは自分たちの無策を隠すため、日本でも麻生太郎副総理が「武漢ウイルス」と呼んだが、ボスカーさんは「これも無知だけではないだろう」と言っている (無知はもう前提としてある訳だ)。ちなみに、COVID-19 という病名は、発生した土地の名前をつけるとずっと偏見が残るからあえて土地の名前を付けないようにしたということだ。それでもトランプ大統領や麻生氏のように意図的に無視する人間が出てくる。

ここで「差別や憎悪はメディアやネットを通じて広がるので時にウイルス以上に“感染力”が強い。たちが悪いのは自分が『感染』していると思っていない点だ」という作家ショーン・ボスカーさんの言葉を皆が意識することが重要だ。

米国最高裁は「差別」と「区別」に明快な線引きを行っている。

米国最高裁は対象事件での「仕分けの性質」を問うことにした。具体的には「黒人ならこれはダメとか、女性ならあれはダメ」など、自分ではどうすることもできない、生まれ持ったステータスをもってして、特定の権利を受ける人・受けられない人を「仕分けていないか」を問うのである。
これは各個人が自問自答できる基準であるだろう。

左記記事より
そして日赤の訴えも参考になる。

「ウイルスは心の中にも感染する。特効薬やワクチンはないので自分で連鎖を断ち切るしかない。」
他の記事:

差別的な言葉は間違いなく人を傷つける。人を絶望に陥れる破壊力がある。
感染者・医療従事者への差別

感染者、感染者と接触した人、医療関係者への差別も続いている。

 医師と看護師の感染が確認された兵庫県小野市の北播磨総合医療センターでは、感染者と接触していない職員や患者、家族らから「ばい菌扱いされた」「勤務先から出勤停止と言われた」などの訴えが相次いだ。ライブハウスでクラスター(感染者の集団)が発生した大阪市では、別の店舗の経営者から「感染リスクが高い『危ない場所』との風評被害が出ている」との声が上がる。
差別であるだけでなく、「このままでは、感染者が立ち寄り先などに迷惑が掛かると感じ、保健所の行動歴聞き取りに正確な情報を話しにくくなる恐れがある」ということだ。


日本赤十字社が公表する「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に対応する職員のためのサポートガイド」の中で
「未知のウイルスは私たちを不安に駆り立て、ウイルスを連想させるものへの嫌悪・差別・偏見を生み出し、人と人との間の連帯感や信頼感を破壊します。私たちの誰もが、これら3つの感染症の影響を受けていますが、最前線で対応する職員はその影響を最も強く受けることになります。COVID-19対応においては、感染対策(第1の感染症対策)はもちろんのこと、第2、第3の感染症が職員に与える影響を考慮に入れながらCOVID-19対応者へのサポート体制を構築していくことが極めて重要となります」
と記載しているそうだ。

医療関係者による患者差別

医療関係者による患者差別もあるという。


差別の対象は精神科にかかっている感染者だ。精神科特有の難しさがあるかららしい。彼らをコントロールするのが (まだ) 長けている精神科医と感染病専門医で協力することで対応が可能でないかと思う。

2008/01/17

反捕鯨テロが許せないのは当然なんだけど...

... こういう批判もある。

米有力紙が痛烈に批判
なぜ日本は捕鯨を擁護し、アイヌのサケ漁を禁止するのか
(COURRiER JAPON 2008年2月号)

なんだこれ?と思って読んだ。
捕鯨を日本の伝統だとして擁護するにもかかわらず、日本政府は北海道に暮らすアイヌ民族の伝統的な狩猟や漁業権を長年規制してきた。特にアイヌの主食である天然サケの捕獲は厳しく制限され、07年に認められた数は1700匹。これでもかつての20匹という数字に比べれば増えている。
アメリカ人がネイティブ・アメリカン (インディアン) にしてきたことを考えれば、お前が言うなと言いたくもなるのだが、これが事実なら (水産庁の漁業交渉人という立場の森下氏も認めているので本当なのであろう)、反省すべきところだと思う。

「日本は単一民族国家である」という誤解は、政治家の失言などからときどき表面化するが、こういう失言があって批判されて初めてそうでないことに気づかされるくらい、我々はアイヌ民族のことを忘れている。少なくとも日本文化を語る際には全ての日本人の共通の価値観みたいな言い方をしてしまうのだ。普段忘れているだけならまだしも、このような文化を無視した制約を課してしまっては罪が深い。

この問題は、欧米、オーストラリアが、自分の価値観 (「クジラは頭がいいから食べるな」) で日本の文化を批判しているのと相似形だ。このためこの問題を放置しておくと、欧米の批判に対する反論は天唾になってしまう (もちろんクジラの問題がなくとも放置しておいてはいけない問題だが)。

少数民族の問題を知らないことに関しては、森下氏も指摘している。
そして日本国民は、アイヌのサケ漁についてはほとんど何も知らない、と森下は付け加えた。「(国民が問題にしないと) 政府も動こうとしないんです」
ところでこの記事はもともとロサンゼルスタイムズの記事なのだが、感情的な捕鯨批判は行っておらず、「欧米の活動家たちの感情的な反対運動に屈せず、持続可能な漁猟を守るために戦っている」という日本の立場をきちんと書いている。

オーストラリアもそのような姿勢を見習ってもらいたい。また、オーストラリはアボリジニに対して行ってきたことを思い出してもらいたいものだ。

それから今日テレビで知ったのですが、オーストラリアでは環境保護を旗印にしたラッド氏が政権をとり、京都議定書も批准したそうですね (2007年12月04日 AFPBBニュース「オーストラリア新首相が京都議定書を批准」)。それは望ましいことなのだけど、反捕鯨も環境保護の一環になっていて、反捕鯨の運動を先鋭化させるあまりCO2削減そっちのけになるのではないかと心配です。