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2008/02/16

川上未映子の文体

おはようございます。モーニング娘。です (ウソ)。

先日、芥川賞を受賞した川上未映子さんのインタビュー記事がありました。

特集ワイド:文学と音楽の関係 芥川賞受賞・川上未映子さん (毎日新聞 2008年2月13日 → 魚拓)

ふんふん、文章のリズム感の良さが評価されているのか、音楽との関係ってありそうだね、と思いながら読んでいたのですが、実際の文章を読んで驚いた。
 <それがあんたの信条でしょうが、は、阿呆(あほ)らし、阿呆らしすぎて阿呆らしやの鐘が鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわおまえのド頭に、とか云(い)って、なぜかこのように最後は大阪弁となってしまうこのような別段の取り留めも面白みもなく古臭い会話の記憶だけがどういうわけかここにあるのやから、やはりこれはわたしがかつて実際に見聞きしたことであったのかどうか、さてしかしこれがさっぱり思い出せない。>(「乳(ちち)と卵(らん)」より)
読みにくいよ!

と最初は思ったのですが、今読み返すとそうでもないな。新聞で読んだときは縦書きだったけど、横書きになったら違うのかも。それとも何回か読めば慣れるのか。とすると慣れるとはまるのかも。

句点(「。」)がないことに関しては、
「文章の切り際ですね。『。』(句点)が、音楽の中で見る、私が感じる美しさに相当する部分だと思います。(自分が書く文章の中に)なかなか『。』が出せないのは、それも関係あるかもしれません。音楽は、途中どれだけダラダラダラってなっても、最後にバチンって止まればかっこいい、っていうのがあるんですよ。だから、『。』ってそういうものだ、と思っている部分があるのかもしれない」
と本人の分析があります。

普通は文を長くつなげるよりも、短く切って行った方がリズム感があると言われていると思います。句点をあまり使わない野坂昭如も、読点(「、」)は多く使っていて、読んで行く上でそんなに苦痛ではなかったと思います。

読み返してみると、この川上未映子の文体は句点とか読点とかと言うよりも、繰り返しとか、そこから音が聞こえるような語の選択とかそういったものから来るのかもしれないなと思います。文字をずらずら追って読んだのではダメで、一旦頭の中に入れてもう一度読むと良いのかも。選考委員の言葉からも、そういう点が伺えます。そう言う訳で、最初と印象が違ったのはそういうことだったかと一人で納得しているのでありました。「声に出して読みたい日本語」に加えると良いかもしれません。

特に次の評価が印象に残りました。
文学、音楽、演劇、ダンスなど多くの分野で批評活動をしている佐々木敦さんは「作家は、その人にしかない言葉の使い方や選び方ができるのが一番の才能。『ここでこういう言葉を使うか』というような、ハッとさせられる使い方をするかどうかが、文学と、文学でないものを隔てる」と指摘する。その上で、川上さんの作品を「言葉に力がある。それが彼女の才能であり、あらすじの説明では出てこない」と言う。
文学を世界観やストーリーではなく文体で見ているんですね。

私も、海老沢泰久や沢木耕太郎など、文体が好きな作家がいるのですが、それにしてもストーリーを追って読んでいる訳で、文体は二次的なものと思っていました。絵画では印象派とかキュビズムとかスタイルが鑑賞の対象になるのに対して、文学では絵画ほどスタイルを取りざたされることはないと思います。芸術学部では絵画や彫刻のテクニックを教えているのに対して、文学部ではどんなことを教えているんだろうか。

日本語とリズムと言う点では、最近の日本語ラップの韻の踏み方は昔に比べて進化しているように思います。Miss Mondayを聴いていてそう思いました。それから、浅井健一。UAが「日本語の歌詞は音楽の邪魔にしかならず、なるべく邪魔にならないような歌詞にすることを心がけて歌を作っているのだけど、浅井さんの曲は日本語が邪魔になっておらず音楽になっている」というようなことを言っていて、それは私には実感できなかったのだけど、その後浅井健一のことが気になっています。

最後は脱線しちゃいましたが、久しぶりに文体のことについて考えさせられました。