2020/02/16

ダムタイプ

昨日、東京都現代美術館で、ダムタイプのアクション+リフレクション を見て、ラウンドテーブルトーク も聞いてきた。

もともと、2月16日に会期終了になる3つの展覧会を見る予定で出かけた。
東京都現代美術館が10:00 オープンで、この順番で行くのが効率的かなと判断した。

開館前に着いたが、チケット売り場にすでに行列ができていてびっくり。そこで3つの有料展覧会があって、セット割引に惹かれ、ダムタイプもあわせて見ることにした。ダムタイプは、NTT-ICCのダムタイプ特別上映で《memorandum》を見て難解だったのでちょっと心配だったのだれど、インスタレーションもあるだろうしまあいいかと判断。

実際に見たら、展示自体は数が少ないものの、やっぱり選択して良かったと思った。

右は《Playback》。16台のターンテーブルがそれぞれ異なった音源から採られ、針が上がったり降りたりして同期再生される。

《MEMORANDUM OR VOYAGE》は、《memorandum》(上記)、《OR》、《Voyage》という3つの作品の映像を組み合わせて作った映像インスタレーション。大画面で迫力がある。

ディスプレイはソニーの協力のようだ。横浜みなとみらいの資生堂グローバルイノベーションセンターS/PARKにある大画面LEDディスプレイと同じものかもしれない。

最後の部屋には《pH》と《LOVE/SEX/DEATH/MONEY/LIFE》が組み合わせて展示してある。



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一つの作品だと思っていたが、手前の移動しているのが《pH》で、奥が見ての通りの《LOVE/SEX/DEATH/MONEY/LIFE》。《pH》は移動している領域に入ってもいいけど、奥まで行き着くと戻ってくるので慌ててみんな戻ることになる。

出口近くに「テーブルトーク」という名前のトークイベントの案内がある。本日15:00からで、それまでまだずいぶん時間がある。失敗したな。午後にこっちにすれば良かった。と言っても仕方がないので、一旦六本木まで戻って国立新美術館でDOMANI・明日2020を見てからもう一度来ることにした。

戻ってきてみたらチケットを買う列が外まで伸びていたので、やっぱりこの順で正解だったと思った。

テーブルトークはケーキとお茶で壇上で語り合う形式。ダムタイプの高谷史郎さん、砂山典子さん、濱哲史さんに、モデレータの長谷川祐子さんが質問して話を進める形式だった。砂山典子さんといえば、「スカートの中、はいってみる?」の作品「むせかえる世界」のアーティストだった。ダムタイプのメンバーだったんですね。

トークのテーマは「パフォーマンスをどのように展示にするか」。ダムタイプは基本的にパフォーマンス集団で、それを人がいなくても見ることができる形式 (インスタレーション) にするかということになる。通常このよーなトークは最初に作品の映像を見せながら解説するのだが、今回はそういう映像は常にスライドショーで切り替わっているだけで解説はなく、ダムタイプの作品を知っている人でないと付いていくのは難しい。というか、私は全然付いて行けず、正直苦しかった。

その中で興味を惹かれたのは、ダムタイプはスーパースターがいるグループではなく、「みんなで考えて作っていくシステム」のことを「ダムタイプ」と考えているというところ。 常に話し合いで決めていて、以前は毎晩そうしていたが、周1回にしたらとたんに時間がかかるようになったという。新しいメンバーとして加わりたいというの拒否しないが、参加の条件は明確ではないということだ。

NTT-ICCのダムタイプ特別上映の《memorandum》以外の作品も見てみるかな。

トークが終わった後、MOTコレクション展も見てきた。オノサト・シノブ、末松正樹など、これまで知らなかったアーティストを知ることができた。岡本信治郎はあいちトリエンナーレ2013で見たはずだが、すっかり忘れていた。今回は右の《ころがるさくら・東京大空襲》など印象に残る大作が出ていた。

2020/02/03

フューチャー・デザイン・ワークショップ 2020 Day 2

1月25日、26日に、フューチャー・デザイン・ワークショップ 2020 が行われ、その2日目を聴講に行きました。

フューチャー・デザインとは何か。未来を現在の延長線上として考え改善していくのではどうしても今直近の問題が重要視される。これに対して、フューチャー・デザインは、まず未来の姿を想像しそこからそのために今やらなければいけないことを決めていく。とはいえ人間は現在の問題にとらわれがちなため、「将来世代になったつもり」の人間を作って将来世代の代理をさせるという手法を使う。

SDGs (Sustainable Development Goals) も世界の改革を目指しているが、現在ある問題を解決する複数のゴールを目指すとは対照的だ。

しかしフューチャー・デザインはまだSDGsほど広まっていない。良いアイデアならもっと広まっても良さそうではある。実現にはいろいろ課題もあるのだろう。このワークショップではそういう点も意識して学びたい。

「世代間倫理における責務と互恵性」 廣光俊昭 (財務総合政策研究所)

例えば現世代が限りある資源を費消すると将来世代はその分使える資源が減る。将来世代のことを考えれば現世代が困窮しても将来世代のために資源を残しておくべきである。これは現世代の人間にフリーハンドがある状態を基準とすれば、将来世代のために自分たちを犠牲にするということである。自分の血の繋がった子に対してならばともかく、何世代も先のしかも全世界の人間のために犠牲になるのが受け入れられるか、ということになる。「互恵性」はそのような一方的な「恵」の受け渡しではなく、将来世代の幸せが現世代にとっても幸せに繋がるという考え方。近い将来で言えば、現在世代の一員である若いせ世代が自分が年齢を重ねるごとに世界は貧しくなっていくという未来が見えているとき、はたして現在世代の秩序を守るインセンティブがあるかという問題になる。そうすると将来世代も今と同じ状態またはよりよい未来があるほうがいいよね、ということになる。

しかしそういう理想的な考え方もなかなか通用しない。現実的に我々日本人は将来世代に「恵」をわたすどころか借金を残している。「国の借金は自分からの借金だから問題ない」という人がいるけど、母ちゃんから借りているんじゃなくて自分の子どもから借りてるんだよ。じゃあ増税して国の支出も抑えるべきかというと、それで経済が低迷したらその低迷した経済を子どもたちに残すことになるので問題はやっかいだ。

自分の世代で使う資源と次の世代に残す資源をシミュレートする世代間持続可能性ジレンマゲーム (Intergenerational Sustainability Dilemma Game, ISDG) (A/Bゲーム) * というものをこのワークショップで初めて知ったが、これが複数の発表で取り入れられていることを見るとなかなか解決しない問題ということがわかる。
* 西條 2018「フューチャー・デザイン:持続可能な自然と社会を将来世代に引き継ぐために」(PDF)

「リーディングプログラムにおける“フューチャー・デザイン”ゼミ活動」 フューチャー・デザイン ゼミ(田中徹他) 慶應義塾大学大学院博士課程 教育リーディングプログラム

慶應大学には「リーディングプログラム」という仕組みが2つあって、もう一つシンギュラリティ・ゼミは「サイエンス・フィクションワークショップ」というテーマで午後に発表がある。このプログラムのユニークなところは、文理融合 (13学科) でどこかの学科に属している訳でなく、文系と理系で二つの専門、二つの修士号をとるところ。そしてフューチャー・デザインは最後に「政策提言」を行う。

興味をひいた概念は「ネガティブケイパビリティ」と水口氏が発表した「Fantasy Future Design」。

「ネガティブケイパビリティ」は、答えの出ない事態に耐えうる能力のことで、私もそうだが受験のための教育を経ているとどうしても「正解」があるという前提で物事を考えがちになり、「正解」がないと不安になる。それを乗り越える力が「ネガティブケイパビリティ」ということだろう。

フューチャー・デザインでは、仮想将来世代人間と現代世代人間が議論を行い合意形成を行うが、合意形成が難しいなどの欠点がある。「Fantasy Future Design」は、地球人の視点を捨て、仮想の地球の現在と未来をよそ者 (宇宙人) の視点で議論する。利害関係のないよそ者の視点をもつことで、現在の視点と将来世代の視点を同時に持てるという利点がある。

「フューチャー・デザインの政策応用の可能性と効果」原圭史郎 (日本学術会議、東京財団政策研究所、大阪大学大学院工学研究科)

政策応用は、2015年に岩手県矢巾町で初実践され、「仮想将来世代の創出」というレポートにまとまっている。 現世代と仮想将来世代の交渉、合意形成を行った結果、多くの将来案が採用された。 2017年には、グループを分けるのではなく「個々人での視点移動」という取り組みを行った。その結果、提案施策が、最初はハコモノ改善というものが中心であったのが、生活の質、現在・将来の関係性を配慮したものに変わっていった。2018年から本格的な応用が始まり、2019年には矢巾町総合計画 未来戦略室ができたほか、吹田市、京都市にも広がった。

「ニューロサイエンスを活用したフューチャー・デザイン研究」青木隆太 (首都大学東京) 

fMRI を用いて、フューチャー・デザインを行っている時の脳の働きの違いを調べた。ひとりISDG (ABゲーム) をMRI内で実施した。将来から考える実験群と、現在から考える対照群で、rTPJ (右側頭頭頂接合部) に違いが出た。

全体ディスカッション (モデレーター:小林慶一郎 (東京財団政策研究所))

もともと小林氏の総括的な発表の予定だったが、時間も少なくなってきたので全体ディスカッションに変更。みなさん色々言いたい人がたくさんいるコミュニティのようで、盛り上がっていた。私も結構質問する方で、今回もSDGsに関してどう思っているのか聞きたかったのですが、遠慮しました。

興味深かったのは、宗教とFDの関係についてのコメント。最初の発表であった社会的持続性はこれまで宗教の機能としてあったものではないかというもの。そうするとFDは科学的ではあるけれども新しい宗教ということになる。宗教とみなされると既存宗教から、その信奉者からは避けられてしまうだろう。むしろ既存宗教の中に組み込まれるような、フューチャー・デザインの論理武装が必要じゃないかと感じた。

2020/02/02

武術の孤児

2月1日、中国映画「武術の孤児」の上映とホアン・ホアン監督のトークショーがあり、行ってきました。

アジアセンターイベント情報 2020.02.01 第31回東京国際映画祭・国際交流基金アジアセンター特別賞受賞 『武術の孤児』上映&ホアン・ホアン監督トーク

この映画は2018年の第31回東京国際映画祭に出品され、国際交流基金アジアセンター特別賞を受賞したもの。賞金はない代わりに日本に短期滞在ができます。それは次の映画のロケハンや、映画関係者との交流に使って良いということです。行定監督や山下敦弘監督との交流などを行ったとそうです。今回はその来日に合わせてイベントが企画されました。

映画は、上記リンクに紹介がありますが、ユーモラスなエピソードと美しい自然の情景が織り込まれた楽しいものでした。主人公国語教師が女医さんのシャワーシーンを想像するところ、生徒の興味を引くために授業で出したダジャレが受けないところなどクスッと来ます。ただすっきりした結末 (問題が解決した等) を期待していたので、え?これで終わり?と感じました。

トークショーでは、ホアン・ホアン監督とともに共同プロデューサーのホウ・シャオドン氏、スタッフのジョウ・シャオラン氏も登壇され、石坂健治氏が質問しそれに答えるという形で進みました。ジョウ・シャオラン氏は「スタッフ」とありますが、ホアン・ホアン監督の奥さんで、助監督、脚本家でもあります。

舞台となった寄宿制の武術学校は中国にたくさんあって、特に少林寺のある河南省には100以上あるそうです。 この映画が1990年代という設定にしてあるのも、1980年代に少林寺映画があり、武術学校に入るブームがあったからだそうです。なお、今は問題児の矯正施設みたいになっているとのことで、石坂氏も「戸塚ヨットスクールみたいなもんだな」とつぶやいていました。

銀座メゾンエルメスのル・ステュディオで見た『ジョッキーを夢見る子供たち』を思い出させます。そちらのほうは、子ども達の騎手養成学校での日常生活を描きながらも着実に成長していく姿を追っていて、その意味では随分違うものです。

制作費に関しての話が興味深かった。中国政府から得た100万人民元をベースに、スポンサーを集めて全体で500人民元かかったということです。これは日本円で約7800万円。日本のインディーズ作品は一桁少ない予算とのこと。行定監督か山下監督かその両方から、その金額があれば3本撮れると言われたそうです。そういえば「カメラを止めるな」の制作費が300万円ほどだというのも話題になっていましたね。それだと26本撮れるよ。

新人にしては多いように見えるけど、中国ではそれくらいかかってしまう、その理由は主に、中国では物価が高いということと、スタッフの非効率な働き方によるとのことでした。石坂氏は「日本の映画界がブラックな側面もあるということだろうけど」と補足されていました。定時になったらさっさと帰ってしまうとか、そういうことだろうなと理解しました。

会場から検閲に関する質問があり、それも制作費が高くなる一因ということです。出したいシーンが検閲に引っかかったときのために別のテイクも用意しておかなければいけない、というのはなるほどと思いました。

先のリンクの映画の紹介では「中国武術への愛が感じられる作り」と書かれていますが、勉強に興味がない子ども達が描かれ、国語教師が最後に「武術なんか何も役に立たない」と爆発するシーンがあるなど、石坂氏も「これは反武術映画としてみることができる」とコメントしていました。ホアン・ホアン監督は「複雑な気持ち。父が軍の体育部門の責任者で自分を体育学校に入れたが、自分はそれを嫌いだった。 その後遊びとしてサッカーをやったら楽しかった。 武術に関しても愛憎混じった感情」と語っていました。学校になじめずいつも脱走する生徒ツイシャンに自分を重ねているんだなと思いました。

中国映画の現状の一部を知ることができて興味深いイベントでした。