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2019/12/23

なぜ「ら」を抜いて話してしまうのでしょうか?

... と質問されたので答えました。

Ouora: "なぜ「ら」を抜いて話してしまうのでしょうか?" の回答

・『「ら」抜き言葉』という言い方は適切ではありません。
・これは正しい進化です。

2019/12/08

恋人がサンタクロース

ユーミンの「恋人がサンタクロース」という曲があります。なぜ「は」ではなく「が」なんだろういうと、「誰がサンタクロースなの?」の質問の答えになるからです。

「あなたの恋人はどんな人?」→「恋人はサンタクロース」
「サンタクロースってどんな人かな?」→「恋人がサンタクロース」

新情報、旧情報という概念があって、旧情報はこれまでの文脈にでている概念、新情報は新しく加えられる概念です。例文の前者では旧情報は「恋人」、新情報は「サンタクロース」になります。一方後者では旧情報は「サンタクロース」、新情報は「恋人」です。

というように「が」は新情報を導入する役割があります (これはひとつの機能での見方で、他の説明が間違っているわけではありません)。

「今日天気はどう?」→「空は明るいよ」
「部屋が明るくなってきたね」→「空が明るいから」

というような文脈が想定されます。

なお、「は」は動詞に対する役割を示す「格助詞」ではなく、語に付加的な特別な意味を与えるものです。「は」は「とりたて」で、話題を設定する機能があります。ですから主格や目的格など何にでもつきます。もとの格助詞が省略される場合もあります。

「その本を読んだ」 →「その本は読んだ」
「学校へ行った」→「学校は行った」/「学校へは行った」
「太郎くんにお年玉をあげた」→「太郎くんにはお年玉をあげた」

「とりたて」は他のことには言及していない宣言でもあります。有名になった「ご飯論法」はこれですね。「ご飯は食べていない」(パンは食べたけどこのことは言及しない)。

------

以上、Quora "日本語の「は」と「が」の使い分けの基準、例えば「空は明るい」「空が明るい」での「は」と「が」使い分け基準は、何なのでしょうか?" への回答でした。

以前"*? 空が飛べたら" で、
新情報と旧情報を区別するとか (「恋人がサンタクロース」)、対比 (「(他の飲み物ではなく) コーヒーが飲みたい」) などの役割がある。
と書いたのの補足でもあります。


恋人がサンタクロース、手の早いサンタクロース …

2019/04/02

新元号についてちょっと語っとくか

4月1日、新元号「令和 (れいわ)」が発表されましたね。号外をゲットするべく新宿まで行ったのですが、配布の場所とタイミングが合わず、入手できませんでした。あとでニュースを見ると、かなり混乱があったようなので、負け惜しみが言いやすくなってよしとしましょう。本当は「歴史の証言者」シリーズに加えたかったのですが。

平仮名にすると3文字というのは予想していたのですが、「令」の文字と「和」の文字はいずれも予想外でした。「和」は「昭和」でも使っていたし、「令」は初めてなんですね。これを聞いて最初に浮かんだのが次のツイート。
これまで中国古典を依拠していたものを、日本の古典からとるというのは、安倍首相が可能性を言及していたようで、それ自体は「やっぱりな」という感じ。

毎日新聞  2019/04/01 新元号「令和(れいわ)」 出典は万葉集、和書初 来月1日0時施行
出典は万葉集の「梅花(うめのはな)の歌三十二首」の漢文で書かれた序文「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」からとった。
「令月」と「風和ぎ」の関係が微妙。本来なら2字熟語は、「気淑く」と「風和ぎ」の対比からとか、形容詞-名詞や動詞-目的語などの関係からとるものじゃないかな。そういう意味でいうと「令和」=「和を命令する」のような印象になる。「和をもって尊しとなす」という聖徳太子17条憲法を思い出すという意味では良さそうだが、要は「揉め事を起こすな」、「不満があっても抑えろ」という「空気読め」文化の走りだよね。

ただ、「令月」の意味を引くと、
大辞林 第三版の解説 (コトバンク)
れいげつ【令月】
①  何事をするのにもよい月。めでたい月。よい月。
②  陰暦二月の異名。
と、「令」は「命令」の「令」でなく、「めでたい」とか「よい」という意味であることがわかる。そうならばやっぱり「形容詞-名詞」となる選択にしてほしかったな。まあ「和」は名詞でもあるんだけど。

ネットを見ていると、ロバート・キャンベルさんの言葉に目が止まった。

朝日新聞デジタル 2019/04/02 ロバート・キャンベルさん「国書か漢籍か、超えた元号」
「国書か漢籍かということはどうでもよく、国を超えて共有される言葉の力、イメージを喚起する元号だ」
本来の意味はどうでもよくて、新しい言葉として、新しい意味を付け加えていけばいいのかもしれない。「明治」が「維新」、「大正」が「デモクラシー」や「ロマン」、「昭和」が「復興」や「レトロ」というコノテーションであるように。

と、普段は「元号なんてやめてしまえ」派なんですが、色々考えてしまいました。

2017/02/16

ラップの文化翻訳

2017年1月11日から開講していたオンライン講座「文化翻訳入門-日本と世界の文化コミュニケーション-」を受けていた。

文化翻訳とは「単に言語を翻訳し、意味を伝えるだけでなく、その文化的意味、背景を含めて伝えるものである」とかいった定義を最初に語ってくれればいいのだが、最初の講義は、文化翻訳とは何かが明確にできないというところから始まる。
書物や文書の翻訳は言うに及ば ず、字幕翻訳でも通訳でも、そこには必ず「原文」があり、それを翻訳した結果としての 「訳文」が存在するわけである。これに対して、社会学、民族学、人類学などにおいて用 いられる「文化翻訳(cultural translation)」という考え方においては、「原文」も「訳文」 も、テクストとしては、ただちには確定しがたいのである。
講義自体もオムニバス形式になっていて、それぞれの講師が自分の専門の中での文化翻訳の事例について語る。

  • 文学: 小説と詩 (日中の詩)
  • 映画、テレビドラマ
  • マンガ
  • 演劇
「今だからこその江戸美術」のときと同様に、最後にレポートがある。
「文化翻訳」の身近な実例を最低ひとつ、具体的な作品名とともにあげ、講義の内容を参照しつつ、どうしてその事象が「文化翻訳」と言えるのか、また、その事象がメディア・文化圏を超えるために必要な要件はなにか、序論・本論・結論の体裁を守って論じなさい。(2000字程度)
 「今だからこその江戸美術」のときは400文字だったのに今回は2000字。制限を気にせず自由に書けるとも言えるが、2000字も書くことがない場合はつらい。

最初の講義で出てきた「散文は翻訳できるが韻文は翻訳できない。音韻の再生や原文の語順の再現を求められるからである」(Jacobson 1959) を踏まえ、韻文であるラップを題材に取り上げた。

以下私が出したレポート。すこしブログ用に整形した。

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ここではラップをとりあげる。

ラップの特徴として「韻をふむ」ことがある。

例えばRun-D.M.C.の曲 "Christmas in Hollis" の最初をみてみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=OR07r0ZMFb8

It was December 24th on Hollis ave in the dark
When I see a man chilling with his dog in the park
I approached very slowly with my heart full of fear
Looked at his dog, oh my god, an ill reindeer

ここでは、"park" と "dark" が、"fear" と "reindeer" が韻を踏んでいる。

そこでこの日本語訳をみると、次のようになっている。
12月24日 もうあたりはすっかり暗くなった頃
公園で犬を連れてこごえてるおっさんがいた
おっかなびっくり近づいてみると
犬だと思ったのはなんとトナカイだった
ここには押韻はない。「いた」と「だった」で「た」が同じであるが偶然であろう。

最初の講義で、『「韻文」は翻訳できない』という命題があった。すなわち、「意味」は翻訳できるけれども、「韻文」の「形式」は翻訳できない、翻訳先の言語で原文の「形式」は再現できない、というものである。正確に言えば「形式」は翻案によって新たに作り出す必要があるということだ。

この日本語訳はそこまで努力して原詩の世界を再現する労力を放棄している (CDについてきた日本語訳であり演じるための訳詞でないので当然である)。押韻以前に、音数を揃えてメロディーに乗せること自体が難しい。

では日本語ではラップという文化は輸入されていないかというとそうではない。日本語ラップというジャンルが存在する。

日本語ラップの初期のヒット曲 "DA.YO.NE" をみてみよう。
ねえ ちょっと聞いてよ 私の彼
そこら辺のとは ケタ外れ
すごくお洒落な彼
出会いは私の方から一目惚れ
と全て「れ」で終わっているが、押韻の意味では「え」段で揃えているということになる。そのあとも「会社では凄腕」、「何だって完璧で」と続くことになる。

英語においては、押韻は、
 母音(列) (+ 子音)
と子音も含めての一致をみるので、バリエーションは豊富だ。ここで母音列とは、ai, au, ei, ou, eaなどである。また母音の長音も別の音とみなされる (a: など )。

先の例では
"park" と "dark" = a:k
"fear" と "reindeer" = ir
となる。

一方、日本の場合使える子音は「ん」だけで、パターンが少ない。

ならべてみると、
 母音のみ: あ、い、う、え、お
 母音列: あい、あう、いい、えい、おう
 上記に「ん」がついたもの
とせいぜい20個程度になる。

できる詞はどうしても単調とならざるを得ない。下手な歌い手だと御詠歌に聞こえるほどである。

しかしこのような制約の中で、日本語ラップというジャンルが形成されているということは、頑張っていると言えるのではないだろうか。

このように、ラップにおいては作品ごとの翻訳、翻案はほとんどなされていない。これはラップにおいては形式の翻訳が難しいためであった。しかし、日本では「ラップ」という文化自体を輸入し、日本に根付かせていると言える。作品ごとではなく、文化全体として翻訳して身につけていると言えるのではなかろうか。

それは、天婦羅、ラーメン、カレーライス、トンカツを日本流にアレンジして日本文化と言えるものに仕立て上げた日本の「たくましさ」と言うべき特質と考える。
(1467文字)

------

レポートの提出が終わると、次は他の受講者のレポートの採点。採点基準が示されており、それを満たしているか否かで採点する。中間点がないのでやりやすいが、「満たしていないと断言するのは酷か」みたいなレベルの時に ×をつけるのはためらわれる。

一人が他の受講者5人を採点することになるので、自分のレポートは5人から採点されることになる。その中の中央値が自分の得点になる。今回満点だったので、5人中3人は満点をつけてくれたことになる。

採点者はコメントもするのだが、ラップを取り上げた点、説明がわかりやすい (特に韻をふんでいるところ) と、好評価をいただいた。これは自分が目指したところでもあるので素直に嬉しい。

2011/03/02

産業日本語研究会シンポジウム

まず長尾先生の基調講演 「知識インフラと日本語」。前回の知の構造化シンポジウムのときと同様、「知識」と「知」の関係。「知」には慣習や善・得に支えられているもの、という話が導入になる。その後情報の分析の話が中心になった。

分析の目的には、日本の産業の強化、イノベーション推進があるようだ。日本は要素技術はもっているものの、iPadのようなものを実際に出すのは外国の会社に先を越されている。

人文科学、社会科学的視点をもった、経済・社会にインパクトを与える研究開発が必要になる。SNS 的に人をつなぐ必要がある。それをサポートする知識インフラが必要になる。これは各分野の知識データベースをゆるいつながりでつないだようなもので、4月からはじめる科学技術基本計画 に取り入れられている。

後は言語技術の重要性であるが、これに関しては皆さん合意ができているだろうことですので、省略します。

発表資料はここから入手できます。→ 「第2回産業日本語研究会・シンポジウム」発表資料

2009/10/29

形容詞+「です」って違和感ありますか

おばんです。

ちょっと前の記事になるが、こんな記事があった。

蟹亭奇譚 2009-10-22 [ことば]「形容詞 + です」という日本語の用法について

ここでは、 九十九式 (復活してたんだ ... ) の『変な日本語(1) 「危ないですから」 』
言うまでもなく、「危ない」という形容詞に直接「です」を付けるのは誤用だ。
に対して、過去の文学作品中でも自然に使われている例を多く挙げ、誤用ではないとしている。

私も誤用ではないと考えるし使ってもいるが、形容詞+「です」って違和感があるという人がいるのも理解できる。自分自身でも「危ないです」とか「大きいです」と書く時にはほぼ毎回そのまま書くか言い換えるか判断しているのだ。それは、「食べれる」や「来れる」など、一般には「ら抜き言葉」と言われる「上/下一段動詞、カ変動詞の可能動詞化」を使う時にも同様だ。

自分ではOKと思っていても読み手が気にすると思えば避ける。余計なところで読み手の思考を中断したり、突っ込む隙を与えたくない (「ソンナトコロニコダワッテナイデ、ホンブンノナイヨウヲヒョウカシテクダサイヨ」)。

話がそれた。「大きいです」に違和感のある人も

「大きいですね」
「大きいですよ」

は、すっと入ってくるのではないだろうか。

「大きいですが ...」

はどうだろう。

このように日本語は (言語はかもしれない) その前後によって容認される度合いが大きく変わってくる。九十九式氏のように、「です」を「だ」に変えると受入れられないのが分るでしょ、というのは意味がない。「です」を「だ」に変えるから受入れられなくなるのだから。

蟹亭奇譚氏の記事では最後の段落
我々は 《話し言葉》 を用いるとき、聞き取りやすい言葉、わかりやすい言葉を使ったほうが、相手によく伝わることを、経験から学んでいる。駅員が 「危険ですから」 ではなく、「危ないですから」 とアナウンスすることによって、外国人や子供を含むより多くの人たちに理解を促すことができれば、そのアナウンス自体の目的を達成したことになるのではないだろうか。
に強く同意する。言語は人に伝えるためのものなのだから。

一方、変えないようにするという立場も一定の範囲で理解ができる。「変えない」=「皆が共通に理解できる」=「伝わる」なのだから。「一定の範囲」と書いたのは、また九十九式氏の文章に戻るが、最後に
本当は正字・正仮名遣いで書いた方が望ましいよなぁ…ということになるんだけど、これはまた別の話ということで。
と書かれているからだ。九十九式氏はここでは態度を表明していないが、歴史的仮名遣いを使う主張をしている人は存在する。彼等は「伝わる」ことを「伝統に忠実である」か何か (彼等は「美しさ」と呼ぶかもしれない) よりも低く評価している。

最後に、出版社ディスカバー21の社長干場さんがこういう発言をしている。

hoshibay: 「危ないです」は書籍編集では「危険です」か「危ないのです」に直します RT @masakocafe9516: 丁寧に言う時は使います。RT @mayumiura RT @maruyama097: 「危ないですから」に違和感を持つ人がいること、初めて知りました。 (Sat Oct 24 16:24:31 +0000 2009)

本の現場では「形容詞+です」はまだ避けるべき表現なのだろう。それは先に書いた読み手を考えるというところにつながる。

ただ「の」を入れるというのは、どうなんだろうね。例えば「大きいです」に「の」を入れて、「大きいのです」にしちゃうとニュアンスが変わってしまうと思う。強調されるだけでなく、理由を意図しているような感じをうける。

デアル調で書いてみるとニュアンスの違いが見えて来るかもしれない。

「大きい」と「大きいのだ」。

「今日の富士山は美しい」と書くとそのままでもすっと入るけど、「今日の富士山は美しいのだ」だと、「だから何?」と聞きたくなる。

さきほど、「です」を「だ」に変えるから受入れられなくなるのだ、と書いておきながらなんだよと思われるかもしれないが、ここでは接続可能かという構文上の話をしている訳ではなく、ニュアンスの話ということでご了解下さい。

2009/10/17

「よろしかったでしょうか」の意味

こんにちは。

先日、「いらいらさせる言葉 [英語編]」で、
「ウエダさんのお宅でよろしかったでしょうか (いきなりなぜ過去形?) 」とか「こちらがコーヒーになります (いつなるんだよ)」など腹立たしい言葉が多くありますね。
と書いたら、pacer3さんから「過去形の日本語ってのは、昔からえん曲の丁寧語としてあったようですね。」とのコメントいただいた。

そういう使い方のことをしらなかったのだけど、ちょうどその前10月9日にNHKで放送された、「みんなでニホンGO!」という番組で「よろしかったでしょうか」がとりあげられたそうだ。

はてな匿名ダイアリー 2009.10.10 これでも「よろしかったでしょうか」を認めない奴は何が不満なんだ!
乱れた敬語とされている「よろしかったでしょうか」は文法的には全く間違っていない。「た」は婉曲表現であると明海大学井上史雄教授。
井上史雄に関しては以前取り上げたのだけど、彼の著書は基本的には言語の使用のされかたをそのまま受け入れるスタンスだった。「婉曲表現である」というのは、現在そのような使われ方をされているということだろう。文法的には全く間違っていないというのも、構文的に間違っていなくても、意味論的に間違っているものや運用論的に間違っていないということの検証が必要だろう。

ちょっと補足すると、運用論的に間違っているというのは、「○○部長はいらっしゃいますか?」と電話で問われて、「はい、そばにおります」と答えるようなもの。

この匿名ダイアリーの人は、NHKの取材をまとめるとOKと結論づけられたものが、一般のアンケートでは否定的であることに対して、それはクレームをつける人が (特に東京で) 多いからであって、言葉狩りであるとして断罪している。

これに対して、次のような意見もあった。

Living, Loving, Thinking: 「よろしかったでしょうか」はやはりよろしくない
「た」は他のありようがありえないような確定性、排他的な断定性を表す。
...
とすれば、何故「よろしかったでしょうか」がむかつくのかは略自明であろう。
承認を求めているようにみえて、否定を許さないというニュアンスがあることを指摘している訳だ。

さて私は最初「ウエダさんのお宅でよろしかったでしょうか」は腹立たしいと書いた。これは電話での第一声に対しての反応で、実はレストランで確認される「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」は私自身は問題視していない。

レストランでの注文の確認のシーンはこうだ。
・ご注文を繰り返させていただきます。
・ハンバーグステーキセットと ...
・ご注文は以上でよろしかったでしょうか。

ここで過去形にしているのは、私の理解を述べた、その表明 (過去というより完了) に対する承認を得ている訳で、決して客が注文するものを押し付けている訳じゃない。

一方で電話の「ウエダさんのお宅でよろしかったでしょうか」は、「私は (カモ顧客候補リストをみて) 電話をかけた、その電話番号は間違ってなかったか」ということを問うている訳だ。

知るか。電話掛けてって頼んでねーよ。

腹立たしいというのがご理解いただけると思う。

ところで「いらいらさせる言葉 [英語編]」でいただいたコメントに対して、私は、
英語では助動詞の過去形が丁寧として使われるのですが、そこには共通する何かがあるのかもしれませんね。
と書いた。

"Living, Loving, Thinking"のSUMITA氏は、
「よろしかったでしょうか」の「た」は「婉曲表現」であると国語学者の井上史雄氏は述べているらしい。そうなの? ただ、「よろしかったでしょうか」の〈外資系起源〉説があったと思う。英語では、will you…?よりもwould you…?の方が丁寧な表現であるように、時制を過去にすると丁寧になるということがある。「よろしかったでしょうか」は外資系企業の英語の接客マニュアルを和訳するときに〈丁寧としての過去〉を素直に直訳してしまったのが起源なのだと。と書きつつ、その出典は忘れてしまった。
と書いている。私は「共通する何かがある」と書いた時に、誤解のことも意識していた。

以前「コーヒーが飲みたい」という文に対して、「コーヒーが何を飲みたいのかな?」という形で間違いを指摘している人がいた。この人は、主語と目的語があって、主語は「〜が」、目的語は「〜を」で示さねばならないという固定的な考えを持って言っているのだと思う。きっと日本語で「私はコーヒーが飲みたい」というのが自然な文として認識できなくなっていたのであろう。

2009/10/12

いらいらさせる言葉 [英語編]

こんにちは。

表題は「うぜ〜言葉」とかしたほうが良かったかもね。日本語だと「ウエダさんのお宅でよろしかったでしょうか (いきなりなぜ過去形?) 」とか「こちらがコーヒーになります (いつなるんだよ)」など腹立たしい言葉が多くありますね。それから最初書いた「うざい」とか、自分の考えを表現できず、「あなたとは関わりたくない」という意味しかない言葉。

もちろん人を不快にさせる表現は日本語だけではない。

ABC Newsにこんな話題がありました。
Oh, Anyway, Whatever! (video)
'Whatever' So Totally Top Annoying Word Poll (text)

以下投票結果。

whatever 47%
you know 25%
it is what it us 11%
anyway 7%
the end of the day 2%

最初の "whatever" に関しては、"Slang: The people's Poetry"の著者でもあるインディアナ大学英語学マイケル・アダムス准教授"whatever"は、言い方にもよるが、dismissivenessを示す言葉になりうると言う。

"dismissiveness"とは何か、辞書には"dismissive"
dismissive 形容詞(思い上がった態度で)(…を)却下する[はねつける]ような?of ...?
と「思い上がった態度で」という但し書きがついている。ふむふむ。

"you know"は、キャロライン・ケネディが使っているところが出ているけど、同意を求める言葉。日本語では「ご存知の通り」か。これ言われると、知らない方がいけないみたいな感じになる。日本語でそれよりも押し付けがましいのは、「〜じゃないですか」かな。「私って、〜な人じゃないですか」なんて言われると「知らねーよ」と言いたくなるな。

上に出て来た言葉は日本語に比べて気にならないな。それって、私が英語のニュアンスが分らず、一方で日本語のほうがその後ろにあるコノテーションを感じ取ってしまうからかもしれない。

2009/05/06

*? 空が飛べたら

おはようございます。僕の翼には羽根がある (ウソ)。

先日ラジオを聴いていたときの話。

女性パーソナリティが
『もし空が飛べたら』というお題で皆さんからメッセージを募集します。
と言ったら、もう一人のパーソナリティ (男性) が
『空が飛べたら』ではなく『空を飛べたら』でしょ。
と言った。

その後「あらためて『空を飛べたら』というお題で ... 」と訂正したのだけど、私は『もし空が飛べたら』で全然おかしく思わなかったんだけどな。

『お酒が飲めたらいいのに』はOKだよね。

確かにGoogleで『空が飛べたら』を検索したら、結果は『空を飛べたら』ばかりだった。中島みゆきのせいもあるけど。

『お酒が飲めたら』とどう違うのだろうか。

「が」は主語を表すと認識している人も多いと思うが、それだけではなく、新情報と旧情報を区別するとか (「恋人がサンタクロース」)、対比 (「(他の飲み物ではなく) コーヒーが飲みたい」) などの役割がある。

『お酒が飲めたら』は、「水ではなくお酒」という対比の意味を考えればOKといえるのだろう。一方で『空が飛べたら』がおかしいと思われるのは、「飛ぶ」と言ったらそれは「空を」以外にないから、という理由が考えられる (高く飛ばず空中に浮くだけでも「空を飛んでいる」という言い方をするよね)。

昔から言語学では「象は鼻が長い」なんて問題にしていたけど、最近の言語学ではどのように扱われているのかなあ。外国人に日本語を教えるときに、「は」と「が」の区別を教えるのは苦労しているようですね。

今日のテーマにあまり関係ないけど中島みゆきの『この空を飛べたら』。歌は加藤登紀子。

[http://www.youtube.com/watch?v=rW5r7-q9-5I]

追記: 表題の「*? 空が飛べたら」の「*?」は、"*" (非文 = 文法的に正しくない文)、"?" (と断言してしまうのは controversial だよね) の意。

2008/11/20

日本語が亡びるとき

あたし彼女
ウソ
てか
な訳ないじゃん
みたいな

... すみません、ふつうに戻します。

話題のこの本読みました。

日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で
水村 美苗


最初は下記で知った。

404 Blog Not Found 今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき
日本語で何かを成しているものにとって、本書をひも解くことは納税に匹敵する義務である、と。
その前に梅田望夫が紹介してたんだね。

My Life Between Silicon Valley and Japan 水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。

梅田望夫が読めと言っても、そうですか、としか思わないのだけれど、この本は私は読む必要があるだろうな。Amazonでもう売り切れたということなんだけど、まあ3〜5日のことだし待てるかと思って発注。でもいまは3〜5週間待ちになってた。

待ってる間にも、取り上げるブログが出ていた。

思索の海 (若手言語学者 dlitさん) 例の本(書評というか感想文)
事実についてはそれほどおかしなことが書かれているとは思いませんでしたが、その代わり「へ〜」と思えるような目新しいことも出てこなかったように思います。しかし、その事実から導き出される推論や意見がどうにも飛躍が多いように思えてなりませんでした(これが一番苦痛だった)。
ふむふむ。
ところでこれは世間的に「優れた評論」になるのでしょうか?僕にはどうしても「自分の言葉に対する思いを勢いで書き綴ったエッセイ」としか思えませんでした。
なるほど、そういう評価をする人がいるということは忘れないでおこう。

ARTIFACT@ハテナ系 『日本語が亡びるとき』を読まずに騒動だけ見た感想

読まずに、て。でも、
基本的に非教育分野の人が「教育で○○すべし」という教育論系の書籍はトンデモまじっていること多いんで、まず読まない。書籍だけではなく、そういう教育論をやたらとぶつ人は、大体ロクでもないんで、いいフィルタリングになってる。教育論って、別に専門知識なくても、誰でも何か言えちゃう分野だから、そういう人が混じりやすいんだろうけど。
これは分る。この理由ならエアレビューも許せます。

実際読んでみて、すごく複雑な思いだ。梅田望夫のように手放しで賞賛するものでもないし、かといって読む必要なし、読んで損したというのでもない。

文章的には、第1章、第2章の自分の経験を語っているところは、すんなりと入って行けるし、瑞々しく情景が浮かぶ。さすが小説家と思う。しかも、本論に続く伏線が的確に埋め込まれている。

このころにはdlitさんの評価をすっかり忘れていましたよ。

しかし、3章は読むのが苦痛だった。段落のレベルではまだ筋が通っているのだけれど、全体の論旨が頭の中で再構成できないのだ。同じことが何度も繰り返して出てくるし。4章以降は少しましになる。繰り返しも意識して構成している。また、フィールドが日本語になるので、物語の部分に瑞々しさが戻る。

そして4章以降には日本語に関する主張がだんだん含まれて行く。しかし、その主張は飛躍が大きく、納得させられるようなものではない。

あれ、dlitさんの感想と同じだ。

「自分の言葉に対する思いを勢いで書き綴ったエッセイ」というのもそう思う。「自分の言葉に対する思い」というより明治時代の「日本近代小説」に対する思いかな。そういう見方をすると、微笑ましく読める。なにしろ、評論ぽく論理を展開しているかと思ったら、その中で「そう。あの大好きな吉川英治。」とかでてくると思わずにやりとしてしまいますよ。それから、こんな記述も。
周知のように、十五世紀に西洋の大航海時代がはじまるまで地球の多くの部分は無文字文化であった。それが、朝鮮半島との近さが幸いして、日本列島は、四世紀という、太平洋に浮かぶほかの島々と比べれば僥倖としかいいようもない時期に漢文が伝来し、無文字文化から文字文化へと転じたのである。文字文化の仲間入りをしたのを記念した「文字の日」をつくり、ブラスバンドに演奏させぽんぽんと花火をあげて祝いたいような ーー あるいは、漢文明に感謝の意を表して、銅鑼を打ちパチパチと爆竹を鳴らして祝いたいような慶ばしいできごとである。ことに小説家にとってそうである。
なんてね。

そしてこういう人を手放しで賞賛する梅田望夫も微笑ましい。

先に「複雑な思い」と書いた。これは段落レベルの主張には納得させられるところも多いからだ。それらは、自分で「日本語はどうなるのか」、「どうあるべきなのか」、「そのために何をすべきか」を考える題材になる。

そして、「文学」とはなにか。「今の文学は文学じゃなく、明治時代の近代日本文学こそ日本の宝である」と考えるような人をなぜ作ってしまったのか (ただの「昔は良かった」年寄りというのではない理由がある)。いろいろ考えさせられる本であることは間違いないと思う。

それ以外にも、「日本の政治家が英語でちゃんと主張できないのは英語力の問題とは違う」とか、「読むことと書くことの違い」とか、考えることは多い。バラバラに書いてあるから、あるテーマに沿ってピックアップしながら再度読む必要があるだろう。

それからこの本に関して書いている人がたくさんいるので、それらも読まないといけないね。読まないといけないと言うより、それぞれ違った観点から書いてあってよむと面白そうだ。

追記:

毎日新聞 書評 今週の本棚:池澤夏樹・評 『日本語が亡びるとき…』=水村美苗・著 (魚拓)
-- この評自体は手放しでの賞賛でどうかとは思うが、確かに現在の日本の独立が保たれ日本語が国語として成立したのが僥倖であったという部分の記述は面白かった。

2008/07/12

きぅ

そういえば、「憂慮する」とか「懸念する」とか言うべきところで「杞憂する」って使う人いるよな。

あ、今特定の人を指して書いている訳じゃないので、気にしないで。

Google検索: 「杞憂すべき」 → 約 89,600 件
-- これはほとんど間違いだと思う。

Google検索: 「杞憂する」 → 約 486,000 件
-- 「杞憂する前に...」とか、「ひたすら杞憂するスレ」とか正しく使われているようだ。

Google検索: 「杞憂される」 → 約 253,000 件
-- 「いろいろ杞憂されるより...」など「尊敬」で使われていて間違いじゃないのが多い。[→ 追記]

Google検索: 「杞憂します」 → 約 287,000 件
-- これは自分のことを言っていて間違いの場合が多いんじゃないかな。

「用杞憂」っていうのもあった。なんだろうと思ったけど、「要求」の書きまちがいのようだ。

ところで、辞書をひくと(三省堂提供「大辞林 第二版」より「杞憂」)、用例に
「深く政府の為に?する処なり/新聞雑誌 54」
というのがあった。たぶんこの主語は一人称なので、上の「杞憂します」のところでは誤用だろうと書いたのですが、「取り越し苦労であってほしいけど私はこういう心配をしている」という複雑な心境を含んだ文なのかもしれない。ということは検索結果にもそういう心境を含めたものがあるのかもしれないね。

追記: コメント欄にも書いたが、私は「杞憂」を動詞として使ったことはないと思う。というか動詞として使われることを知らなかった。今回調べていて思ったのは、動詞として使う使い方はやっぱり自分には受入れ難いなということ。たとえ「杞憂される」として尊敬の助動詞をつけたとしても、「あなたの考え方は取り越し苦労に過ぎない」というニュアンスが含まれる。もっといえばそこには考え方の姿勢そのものを否定するニュアンスが感じられる。それだったら、「XXXというのは (YYYなので) 杞憂だ」というように具体的に杞憂である点を (理由を含めて) 指摘した方が良いと思う。

追記(2): 追記した内容に関して、お前今まで知らなかったのかよ、なんて指摘されたらどうしよう・・・

どこかで動詞として使ったことがあるのを単に忘れていたりしただけだったらどうしよう・・・

「きぅ」ってなんだよ、って言われたらどうしよう・・・

2008/06/09

「スクラッチから」って使います?

おはようございます。今日は宝くじの話ではありません。


Joel on Softwareを読んでいたら、「あなたが絶対にすべきでないこと PART I」に「プログラムをスクラッチから書き直す」という表現が出てきました。

「スクラッチから」という表現は、コンピュータ業界で使う人が多いのを知っているのですが、ちゃんとした書籍では始めてみたような気がします。

辞書 (goo 辞書 三省堂EXCEED 英和辞典) では、
from scratch ゼロから, 初めから.
と載っていて、私も聞いたことはあるし意味も知っているのですが、日本語で「スクラッチから」と言われるとすごく違和感があります。最近は慣れましたが。

コンピュータ業界でない人にはどれくらい受入れられているのでしょうかね。英語圏で長く生活した人は、コンピュータ業界の人でなくとも使っているかもしれませんね。

みなさん、いかがでしょう。

2007/11/28

「けまらしい」って言葉...

... 初めて聞いた。うーん、出だしが「野良妊婦」のときと同じだ。

ARTIFACT@ハテナ系 (加野瀬さん) 「けまらしい」の変化

この中で引用されている内容を引用する。
http://twitter.com/nekosuzu/statuses/413494382
ふーむ。けまらしい、とは、見知らぬ人たちが出会って圏を作りつつあることへのDISりを意味していたが、今は、既に知っている人たちの馴れ合いをDISることを意味している。

これをみると「けまらしい」は、ネット用語らしいということが分かる (「DISり」、「DISる」も分かんないけどネット用語だろうな)。きっと実在する言葉、方言かなにかをネット用語で使い始めたのが定着したのだろう。「じぇらしい」みたいな...

... と、思っていた。しかし、加野瀬さんの次の文についているリンクをたどってみるとそうでないことがわかる。
Twitter検索 : けまらしい
非常に多く使われていて驚いた。

検索結果の中にこんな発言があった。
けまらしいを造語だと知らない人がいたのか…

ここにはリンクも示してある。
http://d.hatena.ne.jp/koseki/20040723/nareai
「あの人たちが仲良くするせいで私が不快になる」っていう気持ちを表現する新しい言葉を作ったらどうか。たとえば、「けまらしい」と言うことにしよう。

って全く語源がない言葉だったのか!

全く語源もなく、ということはその言葉の成り立ちに共感できるポイントもなくて、定着させることができるというのは、恐るべき才能といえよう。まだ名詞だと新しい意味を定義することはやりやすいと言えるが、形容詞ですからね。相当世の中の空気と言うか共通の価値観を嗅ぎ取って、またうまく切り取って(意味の外周を定義する)、さらには音感的にその意味と親和するものを選ばないといけない。

「DISる」も含めて、はてなキーワードに登録されていた。モヒカン用語なのか。
けまらしい
DISり
DISる

「DISる」は"disregard " (無視 - する) のことかと勝手に理解していましたよ。

追記 (2009.08.02): 辞書に載って話題になってる。
goo辞書 「けまらしい」の意味 (提供元:「大辞林 第二版」)

2007/11/22

四字熟語クイズ - ジャックと四字熟語の木

こんばんは。問題が「○肉○食」だけで意味が示されてなかったら「焼肉定食」も間違いとは言えないよな?

やってみた。→ goo辞書 > 「ジャックと四字熟語の木」

初級: 四字熟語もゲームも簡単
中級: 四字熟語自体は知らないのが多いがゲームは簡単
  -- 読みが書いてあったり、三択で他の2つがあからさまにまちがい、とか
上級: 四字熟語も知らないし、ヒントもない

というわけで、初級中級は10問正解、上級は5問正解で「まあまあ合格点」とは言われたものの、あてずっぽが多かったから合格とは言えないな。

ゲームをやっている間は意味を確認するヒマなんかないですが、終ったら正解した分の四字熟語の意味をじっくり調べられますよ。

2007/05/06

規格外日本語

こんばんは。連休も明日を残すのみ、ってもうただの土日って感覚ですよ。

新聞のバックナンバーを探していたら、こんなのがありました。全米が泣いた伝説の記事 (ウソ)。見逃してたなー。

規格外の新・日本語 鋭い観察力・表現ピタリ・思わず爆笑 (毎日新聞 2007年4月27日 東京夕刊 → 魚拓)

「ふとレス」は使えそうだ。「ふつうの子」はなるほどと思いますよ。「恋戦恋傷」、「どす恋」、「送り羊」は思わず吹き出しちゃう。

この記事で言及されていた「みんなで国語辞典!」、今度買ってみようかな。

みんなで国語辞典!—これも、日本語
「もっと明鏡」委員会 北原 保雄
大修館書店 2006-12

2006/02/11

リンボウ先生の手取り足取り書き方教室

ブロガーの皆さん、こんばんは! みんな寒さに負けずPCに向かってるかな?

先月「無口な二人」で紹介した、NHK教育「日本語なるほど塾」。今月は、「リンボウ先生の手取り足取り書き方教室」ですよ! ブロガーの皆さんは必見だ!

第1回 (2月9日で過ぎちゃったので、再放送2月16日午前5:05〜5:30を見よう!) は、「まずは話し言葉に品格を」...

しゅん。

気を取り直して、上記番組紹介から引用しましょう。
ものを書くのに何故、話し言葉に品格が必要なのか。それはあなたが何かを書こうと思った時、心に出てくるのが普段の話し言葉のはずだからだ。話し言葉が文章に反映するのである。人に読んでもらえる文章を書きたいなら、先ず(1)等身大の言葉を使うことである。言葉に品格がでて、説得力ある表現となる。さらに(2)手垢の付いた表現や紋切り型の表現を使わない。なぜならこれらの表現は、文章を「安く」してしまうからある。その上で(3)常に他人の目で自分を見る、つまり客観的な視点をもつことだ。そして(4)日本語の本質ともいえる敬語を使いこなせるよう心がけることである。
... しゅん。

気を取り直して... まずは、この「等身大の言葉を使う」ってところから着目していくのがいいんじゃないかと思います。

‥‥そんなワケで、手垢の付いた表現にならないよう気をつけて、品格あるニポン語をメザシ鯛なんてダジャレも折り込みつつ、精進したいと思う今日この頃なのだ。... あれ?

2006/01/16

無口な二人

おはようございます。新山千春です (ウソ)。

今月のNHK教育「日本語なるほど塾」は、「私の母語は津軽弁」(伊奈かっぺい)

第1回は『「どさ?」「ゆさ!」 〜言葉は短くなるもんです』で、こんな劇の台本を紹介していました。本当はまずいけど全文引用します。
戯曲 (おしばい) 『無口な二人』 一幕一景
女 のー。
男 ...。
女 のー。
男 ん?
女 のー。
男 わ?
女 な!
男 あ?
女 さー。
男 ん?
女 い...。
男 ふ。
女 の?
男 あ。
女 く?
女 く?
男 ん...。
女 の!!
男 くー。
女 て。
男 て?
女 て!
男 ん。
女 か。
男 ん。
女 け。
男 く。
女 め?
男 め。
女 ん...
ー 幕。
いかがでしょ。

意味が知りたい人は、1月19日午前5:05〜5:30の再放送をどうぞ。

2006/01/07

ほねとかわとがはなれるおと

おはようございます。康熙帝です (ウソ)。

このタイトル、なんだか分かりますか? 1文字で最も長い訓読みをする漢字 (のひとつ) らしいです。

ば○こう○ちの納得いかないコーナーさん「1文字で最も長い訓読みをする漢字は?」で紹介されていました。

その漢字は「」。

ちゃんとでるかな。後にでてくるはてなダイアリー - 雑記 「長い読みの漢字?」からコピーしてきました。

まとめサイト「長訓読み選手権」も紹介されていたのでみてみました。おもしろい。「きょろきょろみまわす (漢字出せない)」とか、「さもあらばあれ (盡)」とかは言われればそうかなと思う。

ただ、注意書きもあります。これは結局、漢字の意味の説明であって、「訓読み」というのは適切ではないのではないか、ということです。

さらに、その「訓読み」という概念の意味、範囲を問題にしている記事はてなダイアリー - 雑記 「長い読みの漢字?」 (2004年3月の記事) へのリンクがありました。これを見ていると。これまで何の疑問も持っていなかった「訓読み」という言葉、概念のあやふやさが認識できます。

まあ、問題があるからといって困るようなことでもないので、単純におもしろがろうと思います。

それから、「長訓読み選手権」が含まれているサイト「曉に死す」のコーナー「漢字雑文」はほかにも面白い話題が載っているようです。時々見て、ブログのネタにしたいと思います。

2005/10/09

日本語ブーム

こんにちは。「爆笑」ってひとりで大笑いすることではなく、多くの人がいっせいに笑う時に使うらしいですね (ウソじゃないぞ)。

昨日午後テレビを見ていたら、日本語のクイズみたいな番組をやっていました。特番の宣伝のための再放送のようでした。

調べてみると...

10/9 18:56 - テレビ朝日 「一流有名人が国民1万人の日本語テスト正解率に大挑戦」
10/11- (新番組) 19:00 - テレビ東京「三宅式こくごドリル」
10/11- (新番組) 23:20 - フジテレビ「タモリのジャポニカロゴス」
10/12 6:55 - TBS 「あなた説明できますか」第1回「日常生活で何げなく使っている似たような言葉」
10/13- (新番組SP) 18:55 - TBS 「クイズ! 日本語王グランプリ開幕戦SP」

... こんなにあるのね。

クイズ形式にすると面白いことは面白いのですが、無理矢理正解を決めたようなのも出てくるんじゃないかなあ。昨日の番組だと、「レクリエーション」と「リクリエーション」のどっちが正しい? なんてやってました。どっちも正しく伝わると思うぞ。

あと、「間髪」の読みを答えさせていました。もとは「間、髪をいれず」なので、「かんはつ」が正しいと言っていました。「間髪をいれず」に対して読みを答えさせるならわかるけど、「間髪」だけ与えられたら、日本語の読みのルールとしては「かんぱつ」となるはず。

脱線しますが、「綺羅星の如く」もただしくは「綺羅、星の如く」なのを「キラぼし」と誤解されていることが多いというのは有名ですね (有名だったら誤解しないだろ、という話もありますが)。仮名漢字変換 (ことえり) で「きらぼし」と入れると「綺羅星」も候補に出るし。... と思ったらもう辞書にも載ってるんですね。

ネタが続くのかな。だんだん「それはないだろ」というのが増えそうな懸念があります。
無理矢理正解を決めたり、おかしな解説でかえって日本語を歪めたりしないで下さいね。

たとえ金田一秀穂先生が許しても、このウエダが許しません。

過去の投稿:
2004/7/31 言語は生き物、だけど...
2004/9/22 「違かった」って使います?
2004/10/2 活用がなくなって行く言葉
2005/5/22 だんだん変わっていってもOK
2005/7/22 やばい日本語力(この「やばい」は正しい使い方)

私も日本語にはうるさい、という方は → 今日もクリック!

2005/07/24

雨に降られた (被害の受身)

おはようございます。ただマイヨ・ジョーヌのためでなく (補足: ツールド仏が行われていることはして知っていたのですが、24日が最終日だったんですね → 2005.07.25 CNN/Reuters)。

朝早く目がさめて、眠れなくなったので、自転車でお散歩に出ることにしました。

いきなり下り坂で転んでしまいました。ブレーキが効き過ぎるのに慣れていません。

気を取り直して、広い道に出ることにしました。朝は気持ちがいいなあ。道もすいていてスピードも出せるし。

30分くらい走っていたら、雨が降り出しました。すぐに結構強くなってきたので、慌ててうちへ帰りました。うちに帰った頃には小降りになり、今はやんでいます。とほほ。

普段は自然に対して無頓着な生活を送っていますが、雨が降ることも想定に入れた計画にしないといけないと思いましたよ。