2015/05/24

言葉の軽さ、重さ

一国の首相の資質について考えさせられる。いや宇野宗佑氏のときも森喜朗氏のときも細川護煕氏のときも麻生太郎氏のときも思ったんだけどさ。今回は特に。

神奈川新聞への寄稿(ロング・ヴァージョン)内田樹
安倍首相は年金問題のときに「最後のひとりまで」と見得を切り、TPPについては「絶対反対」で選挙を制し、原発事故処理では「アンダーコントロール」と国際社会に約束しました。「あの約束はどうなったのか?」という問いを誰も首相に向けないのは、彼からはまともな答えが返ってこないことをもうみんな知っているからです。
そして「誰も以前の発言に関して問いただすことはない」ということは覚えてしまった。今後も嘘をつき続けるだろう。

なんと言葉が軽いことか。

そんな彼でも、言葉の重さを感じるところがあるようだ。それは「非を認める」ということだ。自分に限らず、日本国の非も含めて。

ポツダム宣言の歴史知らず「戦後レジームの打破」とは/志位委員長が指摘 (2015年5月22日 しんぶん赤旗)
 「彼にとっては、(ポツダム宣言は)戦勝国が勝手な要求を突きつけたものであって、『破り捨てたい』というのが本心だと思います。それを言うわけにいかず、あのような(=読んでいない)答弁になったのかなと思います」とのべました。
追記: 日本の間違いを自分の口から認めたくないためにとった行動が世界の不信を呼ぶ。

2015 とくほう・特報/安倍首相の「ポツダム宣言読んでない」/党首討論 国内外に衝撃/“世界との関係ご破算”の深刻さ (2015年5月23日 しんぶん赤旗)

このように自分の言葉として口に出したくないものの一つが慰安婦問題における旧日本軍の非だろう。「河野談話を継承する」との一点張り。「5年前の歴史すら修正する従軍慰安婦否定論者」(2012年6月4日 誰かの妄想・はてな版) から引用。
安倍首相 は、辻元氏の質問によって滅多打ちにされ、ひたすら「慰安婦問題 に関する政府の基本的立場は、平成五年八月四日の内閣官房長官 談話のとおりである。」とほとんど、ママに叱られて布団に包まって泣いている子どものように同じ台詞をひたすら繰り返しています。

おそらく安倍内閣 は、”政府が河野談話を踏襲していること”を明言した回数において、歴代内閣中トップでしょう。
旧日本軍の非は誰かが言ってくれているので、このようにそれを引用すれば良い。いや、引用は自分の口でいうことになるのでそれも避けて「踏襲する」と言っている訳だ。

では自分の非に関してはどうか。この前の「日教組」野次にしても、謝罪は拒否して「遺憾である」しか言ってない。

安倍首相が事実誤認認め「遺憾」表明 「日教組」やじ巡る背景説明で (産経ニュース 2015年2月23日)
「正確性を欠く発言があったことについては遺憾で訂正申し上げる」
正しくは、
「日教組は補助金をもらっている」「(日教組の本部がある)日本教育会館から献金をもらっている議員が民主党にいる」などと指摘。しかし、日教組は補助金を受けていないことが発覚した。
「正確性を欠く」というよりひとつもあっていない。それなのに「間違い」、「嘘」という言葉を避けている。

謝罪に関しても同様だ。テレビを見ると「謝罪はしないんですか」と問いただしたのに対し「先ほど申した通り『遺憾』だ」と答えていた。「謝罪」という言葉も口にできないのだと思う。「遺憾」という言葉はよく謝罪会見で使われるが、「残念だ」という意味で「謝罪」の意味はく、謝罪会見で使われているということは「自分はそういう指導はしていないのに部下がやった」という意味だ。自分の非をいうのに「残念だ」もないもんだ。きっと、この叱られている状況が不本意で残念だってことか。

私は以前「62年目の夏、長崎原爆慰霊祭」において、安倍首相が憲法遵守の立場を宣言したことを評価した (「この方針転換が本当ならば」という留保は付けているが)。今考えると、彼にとって憲法自体が解釈でどうにでもなる存在だったんだなと思う。

戦後70年談話だって上っ面の言葉の羅列なんだろうな。