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2012/02/27

ユーミン、松井冬子、上野千鶴子

2011年12月18日に松任谷由実氏×松井冬子氏 クロストークに参加してきたのだけど記事にしていませんでした。その時点で展覧会自体は見ていなかったので、2月11日に松井冬子アーティスト・トークがあるのでそのとき行ってあわせて見てから書こうと思っていたのですが、それも出遅れて満員で入れず、展覧会も人が多そうなのでパスして、女子美卒業制作展に行っていました。このぶんだと、いつになるか分らないしなー。

応募が1650通あったそうです。定員200名ですから結構な倍率ですね。

ユーミンは松井冬子にあわせて (対抗して?)、着物で来ていました。松任谷由実の実家は呉服屋さんだそうで、古いけど良いものだそうです。アレンジして着こなしているのだとか。

ひとしきり、今回出されている作品の中でユーミンが気に入ったものとか、話題の作品の話をしていたのだが、途中で「実は客席に上野千鶴子先生が来られているんですよ」と上野千鶴子を紹介。どこにいるんだろうと思ったら私の斜め後ろの方で、本当に一般客として来ていた。立ってはくれたものの、ステージに上がることは固辞されたので、話が変な方向に走ることがなく一安心。

上野千鶴子は、以前「美人なだけじゃない」で書きましたが、どうも持論を主張するために松井冬子を使っている感があって、フェミニズムがどうこうというのではなく上野千鶴子には嫌悪感を感じた。でも今は松井冬子もそのときよりはあしらいになれた感じ。

その直前に読売新聞に上野千鶴子が松井冬子のことを書いた文章が載ったそうで、ユーミンが新聞をみせていました。「リストカットとか、そういうこわいことが書いてあるんですが、本人はそんなことないんですよ」なんて言っていた。ユーミンも苦々しく思ってたんだろうな。また、対談の中で「松井冬子さんってこう見えて実は体育会系ですよね。そうでないとこんな大作作れない」とも言っていて、それも上野が与えようとするイメージを否定するために思えた。

まあフェミニズムはおいておいても、松井冬子の作品の話をすると、グロテスクなものの扱いとか生と死とかそういう話になる訳で、小学5年生のとき初めて猫の死体に触れそれがきっかけになっている話や、子羊の死体をもらって冷凍したものをアトリエにおいていた話とか面白かった。

ユーミンが美大生だった話も出て来た。加山又造が先生で、「音楽やっているんだったら、(提出作品として) アルバム持って来なさい」と言われた話をしていた。加山又造を「サル」とか「エロ」とか言っているのも面白かった。

芸術論のまとめとして、何を描いたかではなく、「対象と筆のストロークが一致する瞬間がある」、それは音楽で「歌詞とメロディーが一致する瞬間がある」のと通じるという話だった。

松井冬子アーティスト・トークも聴きたかったな。「東京藝術大学の博士論文を講演形式で紹介します」ということなので、CiNiiを探したのだけど見つからなかった。
追記: 国立国会図書館にはありました。→ 知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避 
ここからたどるとCiNiiにもあることが分りました。→ → 知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避 

参考:ART TOUCH 絵画と映画と小説と 2008.04.28 「松井冬子と上野千鶴子」

2008/04/22

美人なだけじゃない

昨日放送された松井冬子の番組、録画もしていたのですが、ほとんどリアルタイムで見ていました。

これまで松井冬子に関しては、作品の評価以上に美人だから評価されているんだろうと思っていました。ファッション雑誌でモデルやったこともあるしね。

ごめんなさい。

昨日の放送をみて、芸術的指向、努力、意志の強さ、集中力など、アーティストとしての松井冬子のすばらしさが分りました。

そう言えば私も最初は作品に惹かれたのでした。その作品を探したら、ブログで紹介しているところがありましたのでリンクしておきます。

オンナだってクラシコイタリア: 見に行きたかった美術展
(あれ、ALTACIAって平澤さんが関わったところでは? 後で調べる → この記事「イタリアンクラシコのセレクトショップ:ALTACIA@自由が丘」)

「この疾患を治癒させるために破壊する」という作品名なんですね。巨大な作品でかつ細部まで描かれていて圧倒されます。

これ以外の作品はグロテスクなモチーフが多くて、そしてそれが松井冬子の特徴として取り上げられるので、作品としてはそんなに評価をしていなかったのですよ。評価していないというと評価できるような審美眼をもっているような言い草なので、「好きとはいえない」と思っていました。松井えり菜ほどの嫌悪感はもたなかったのですけど。

昨日の番組は放送前に気がついていて本当に良かったと思います。教育テレビなんて普段だったら番組表もそこだけ避けて見ていることが多いですものね。

反響も大きかったようで、私のところでも急にアクセスが上昇し、今日もまだ続いています。

Googleの急上昇ワードも朝になっても1位を続けていたようです(右は朝6時半ころのスナップショット)。

ブログの反応も「見直した」というのが多いですね。

増山麗奈さん (反戦アーチスト) 増穂の登り釜にて、陶芸初挑戦
昨日の松井冬子さんのNHKに衝撃を受けました。あのストイックに作品に向かう姿は美しい!!同じ女で画家だけど嫉妬通り越して、賞賛!
rucci bibourokuさん 松井冬子と上野千鶴子 -- 「あわせて読みたい」つながりw
結果としてものすごい番組だった。非常なる感銘を受けました。
ただ「上野千鶴子のツッコミ手厳しかったけどね。松井さんひきつってたもんね。」という部分はちょっと私の感想と違います。松井さんも人の作品をダシにして自分の主張するんじゃねえと思っていたんじゃないかな。

最後に、作品制作中もいつもあんなにばっちりお化粧しているのであろうか。それともテレビ用に特別?

2007/04/15

「フェミニズム」と「フェミズムのようなもの」

こんにちは。小山田ノンです (ウソ)。

前回の記事でちょっとふれた、「なぜフェミニズムは没落したのか」 (荷宮 和子) の感想。

1980年代の後半はバブルの時代で、最近は「バブルへGo!」なんて映画も出来て見直されているけれど、あまり肯定的な捉え方をされていないと思います。少なくとも私はこんな時代はおかしいと思いながら過ごしていました。そうそう、「新人類」なんて言葉もあったな。

しかし、この時代に働き始めた女性から見ると、がんばって働けば自立が得られる、そういう実感が得られた時代と肯定的に捉えられていことが語られています。それは、バリバリのキャリアウーマンがというのではなく、普通に生活を楽しみたい、おしゃれしたい、美味しいものをたべたい、普通のOLが、という意味で普遍性をもったものとして扱われています。

自分で働いて実力で自立する生き方が共有されていた。

これが、筆者のいう「フェミズムのようなもの」。

なぜ「フェミニズム」とわけているかというと、「上野千鶴子に代表される」フェミズムに対する嫌悪感がベースにある。私達はあの人達とは違うという感覚。
女を見下してやまない「大人男」と同様、80年代フェミニストもまた、「仕事はできるけれど、可愛いものになんか興味のない女」と「かわいいものが大好きな、仕事のできない女」とに分断しなければ、「女」という生き物を理解することができない類の人間だった。
という文に代表されると思う。

本来「フェミニズム」は女性全体のためにあるはずなのに、一部の女性にしか適用できないものにしてしまったことを批判している。リーダーならば本当は、私達になにをすべきか教え、私達をひっぱってくれなければいけなかったのに。

それに対するものとして位置づけているのが林真理子。働いて稼いで、自分の欲しいものを得て自分のやりたいことができる、そういうことを伝えてくれた。手本を示してくれた。

その意味で松田聖子も自分達の側に立つ人間として扱われている (先日NHKで松田聖子を扱ったドキュメンタリーをやっていましたが、自立する女性として同世代の女性から支持されていることが描かれていました。ちょうどこの本を読んだところだったので、タイミングがよかったな)。

さてこの「自立」だが、「風邪をひいたとき、一人暮らしをしていてよかったとつくづく思う」という文がでてくる。女性にとっては、実家では風邪をひいても気兼ねなく寝込むことができない、ということらしい。それまでは結婚しなければそういう立場を得ることができなかった。雇用機会均等法ができて、「実家から通うこと」が就職の条件から外れることで、手に入れることができた立場。男性にはあたりまえにあったものなので、気づかない視点だと思う。

これ以外にも、DCブランドに対する思い、「アンアン」派と「JJ派の違い、大人の女性に受入れられようになったキャラクターグッズ、少女マンガの傾向の推移など、男性では分からない分析が多く、その意味でも興味深く読めた。主張が散漫になるようにも見えるが、主張を支える意味で必要な部分なのだと思う。

これも主張に必要だったのだろうが、この本で流れているもう一つの対立軸は世代の差。フェミズムの没落の原因にフェミニズム派への反発があるのなら、「フェミズムのようなもの」は残っても良さそうではある。でもそうなっていない。団塊ジュニア以降には「がんばってもしょうがない」という価値観が流れているというのだ。

この原因はあまり分析されていない、というよりも私が納得できていない。私にはバブルがはじけて不況が続いているからという理由に思えるのだが、それだったら景気が良くなるとまた「フェミズムのようなもの」は復活するのだろうか (政府発表では不況を出して長い間上昇を続けているということなのだけど)。

筆者は「雇用機会均等法」の存在をあげている。ここは主張が分かりにくい点ではある。いくつもの観点が出てくるが、「雇用機会均等法」以降、女性の生き方が「結婚」をめざすか「仕事」をめざすかが、人生のいろいろな節目で選択を迫られるようになったこと。均等法を勝ち取った世代とあたりまえにあった世代の差。自分達の世代が女性が働くことの辛さをつらさを伝えすぎ喜びの伝え方が足りなかったのではないかという反省...

いろいろあるけれど、やっぱり次世代以降の姿勢を問題視している点が大きいように感じる。うーん、こう書くと「近頃の若いもんは」になってしまうのだけど。少なくとも、頑張っている自分と自分の世代に対する自負は好ましく感じた。

さて最後にこの本における男性の捉えられ方に関して。この本の初めの方では、男性と女性が同権でないことが、自分達が頑張ってきたモチベーションであることがわかる。それは「私より共通一次の点数が低い男よりも安い給料で働かなきゃいけないわけ!?」という言葉に代表されている。しかし最後になると「男自体がバカだから (戦争を起こす、差別する)」という論調に変わってくるのだ。
結局、私の本音を言葉で表現してみるなら、男女平等主義者でも女権拡張論者でも男女共同参画論者でも男性敵視主義者でもなくって、ただ単に私は、男性蔑視主義者であるに過ぎないんだなー
最初に書けよっ!

そういう意味で、殿方にはお勧めしませんことよ (← 女子かっ)。