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2008/08/24

日本は法治国家なのだろうか?

「日本は法治国家なのだろうか?」... これは以前『「転び公妨」って言葉 ... 』で引用した森巣博さんの記事のタイトル。

『「転び公妨」って言葉 ... 』の最後に
高知バス白バイ衝突事件なんてのもあることを忘れてはいけないと思う。

と書いた。この件に関してはこれ以上の言及をしていなかったが、最高裁で上告が棄却されたそうだ。新聞には載っていないようだ。

きっこのブログ: 警察による大犯罪を見て見ぬふりの最高裁

バスに乗っていた生徒たちは、完全にバスが停まっていたと訴え続けてきた
→ 最高裁判断: 関係者の証言は信用できない

事故直前にたまたま現場を通りかかったまったく無関係なドライバーの目撃証言
→ 最高裁判断: 供述者が第三者というだけで、その供述が信用できるわけではない

新証言 (事故の翌朝に事故現場を見に来た人の証言)「スリップ痕などどこにもなかった」
→ 最高裁判断: 上告理由にあたらない (高知白バイ事故=冤罪事件進行中「判決でました 」)
-- 注: 通常上告は新証拠/証言がなければ認められない。この最高裁判断は新証言の存在を認めていない、提出を認めないという意志の表明といえる。

バイ隊員の仲間の証言 (事故現場を見えない位置からの目撃証言)
→ 最高裁判断: たとえ関係者であっても、警察官の場合は信用できる

...

「日本は法治国家なのだろうか?」という問いに、ただただ暗澹たる思いになる。

さて森巣さんのコラム、COURRiER Japon 9月号の第16回は「日本は法治国家なのだろうか?(後)」の矛先はマスコミと警察に向けられている。
じつはわたしは、不審人物や犯罪者たちがどこにかたまって存在するのか、知っている。おそらく、日本国民の大多数も、知っている。マスメディアも報道しないだけで、知っている。ところがそれを告発すると、警察に狙われるのは、逆に告発者の側となってしまうのである。

これは、警察のことを言っているのだ。

警察で行われてきた裏ガネ作り。これは横領した公金を返納した、ということですんでいるけれども、その中で様々な犯罪が行われてきたことは全く問われていない。下っ端は偽造領収書に署名捺印させられたが、これは虚偽有印私文書作成・同公使。その他それを強要した上司は強要罪、さらに脱税など8つの犯罪をあげている。それらが全く問われていないのだ。

きっこのブログの記事のタイトル「警察による大犯罪を見て見ぬふりの最高裁」も、それにつながる。

裁判員制度が始まったら、市民の目でこれらの警察の犯罪を抑えることができるのだろうか。裁判員は外部からの情報を遮断されるのだろう? 裁判所が証拠として出したものだけで判断しないといけないのでは監視のしようがないのではないか。

(すみません、この部分正確なところは理解していません。裁判が始まるまで情報をシャットアウトするなんてことが可能な訳はないと思うのですが、どのようにして裁判所提供の情報だけで判断することが可能なのでしょうか。)

マスコミの報道は知ることができるのだろうか。しかし...

森巣さんのもう一つの矛先はマスコミだった。このような法治主義下の不平等を放置するマスコミ。
海外、というか主に英語圏のマスコミと日本のそれとの決定的な相違は、日本のマスメディアは素朴な質問を発さない部分にある、と思う。権力に遠慮しているのか、それとも単に頭が悪いだけなのか。権力に媚びる。そして、権力のおこぼれにあずかろうとする。

今回の事故、というか事件でも同様だ。

「高知白バイ事故=冤罪事件進行中」ブログの記事「今日の記者会見」から引用する。
 誰も片岡さんのことを真剣に考えてくれてはいないようだ。(県内一社を除き)
なんで自分の頭で考えてくれないのだろうか?

...

記者会見の後、会見場を出た片岡さんに声を掛けたそうな若い記者が何人もいました。この事故や裁判の経緯を知らなくてもいいんです。

知らなきゃ『知らないんですけど教えてください』で聞けばいい。

追加トラックバック - 裁判員制度に疑問を抱いている人達がいます。

村野瀬玲奈の秘書課広報室: 冤罪の高知白バイ・スクールバス衝突事故 (裁判員制度、大丈夫とは言えない気がします... (6))

2008/07/18

考えない人間を作る教育

おはようございます。

森巣さんが、卒業式における国歌斉唱問題で、起立斉唱しない人は自分の考えを持ってそうしているのであり、その人達を処分するのは教育の場に相応しくないという主旨のことを書いていた。

[今ソースが確認できないのであとで追記 → 最後に追記しました。]

ここは森巣さんの認識は正しくないと思った。「愛国」教育の目的は盲信する人間を作ることだろう、もちろん教育する側はそういうことは言っていないけどね。

そしてそれはかなり成功していると思っていた。

内田樹先生のブログに「アメリカ人はどこまで」という記事があった。はは、アメリカ人はよその国のこと知らないんだよな、と思いながら読んでいたら、後の方は日本の若者の話になっていた。最後の方で、
今の日本社会では「知性的にならない」ことに若者たちは知的エネルギーを集中している。

無知は情報の欠如のことではなく、(放っておくと入ってきてしまう)情報を網羅的に排除する間断なき努力の成果である。

「知性的になってはならない」という努力を80年代から日本は国策として遂行してきたわけであるから、これはスペクタキュラーな「成功」なのである。

と書いてあった。

マスコミのこととか、死刑制度のこととか、裁判員制度とか、格差社会とか、左翼と右翼のこととか、最近いろいろなことがつながっていると感じます。

追記: 森巣博氏の記事はCOURRiER Japon 2008年5月号でした。前半は御自身の息子さんのお話。移民である森巣氏の息子さんは集団行動が出来ないのだが、オーストラリアの教育関係者は、息子さんの才能を発見し、環境を与え、15歳で大学、18歳で大学院に入学した。そのころオーストラリアには飛び級の制度がなかったので、既存の規則よりも子供の才能を伸ばすという信念を優先させたということになる。

これに対して日本の教育はどうなのかということが後半の主張になる。

・神奈川県教育委員会は君が代斉唱の際に不起立などの行動をとった職員は罰するとした。
・学校運営に大きな支障があるからという理由である。
・それがどのような支障というのであろうか。おそらく思想統制なのだと思う。
・不起立の職員は「愛国心」に欠けているということであろう。
・思想改造が必要と判断しているのであろう。東京都などは不起立の教職員を、北朝鮮のように「研修所 (= Re-education Camp)」に送り込んでいる。
・「愛」の反対は「憎悪」ではなく、「無関心」だ。[心理学者の共通認識]
・無関心な教職員は、命ぜられるまま起立することであろう。
・信念に従って不起立を貫く教職員たちは、(信念に従って起立する教職員と同様に) 「愛国者」だと思う。

不起立だけでは、「愛」と「憎悪」の区別はつかないだろう。しかし、国を「憎悪」しているならば、教職について次世代の日本人を育てることはしていないはずである。おそらく、思想統制を進める (= 自分で考えることをやめさせる) 日本の現状を憂いての行動だと思う。

私の「愛国心」も、そういう愛国心だ。

2007/07/29

改憲か解釈か

こんにちは。選挙行く前というか投票日前に書いておくべき話題だったと思いますが...

クーリエ・ジャポンに、森巣博氏による「越境者的ニッポン」という連載があります。森巣博は、ギャンブラーで作家。連載の第1回ではそのことについて書いていました。自分のことを「チューサン階級」(中学3年生程度の知識の持ち主)と称していますが、博学で種々の経験もあって文章も論理的で面白い。

3回目(8月号) 「正論といふもの」では「憲法改正」に関して書いています。

・「国民投票法」は「憲法改正手続き法」であるはずが政府もメディアもちゃんと伝えていない。
・自民党が出した新憲法草案は「新憲法制定」というべきもので、「改正」という言葉を使うのもおかしい。
・言葉の置き換えによる言論誘導が行われており、全てがなし崩しに進んでいる。
・「戦争犠牲者」も本来は「戦争被害者」であり、「犠牲者」への言い換えは「加害者」の存在を不問にする。
・森巣自身は「改憲」派という立場をとる。条件付き改憲派。
・今までの憲法は、政府(法の執行機関)によって解釈を曲げられてきた。
・これにより「現実が憲法にあわない状態になっている。
・現実を認め、憲法を政府が守れるものにしてあげましょう。
・しかし、そうやって決めた新しい憲法は絶対に守らせることが必要だ。
・守らせるための担保が必要となる。憲法とは別に罰則規定を定めた法律が必要だ。
・これこそが正論だ。

私も、『「お釣りはお駄賃」は許しません』 (2005年 10月 16日)では、
第9条改正は、前原さんと同様、条文の矛盾をなくす意味では必要と思っています。ただ、現在検討されているのは、憲法の位置付けを、「国家権力を抑制する」ものから、「国民のあり方を規定する」ものにすることを主眼としているらしい。

と書きました。ごまかしが嫌いなのです。

一方で、私の立場は護憲にあることは読み取れると思います。憲法改正でさらに憲法を改正しやすくなったり、国民のあり方が規定されることで、ただでさえ同調圧力に弱い(「空気読め」に抗いきれない)日本人から自由な議論が奪われることを恐れています。

また、解釈憲法によっても、今まで平和が維持され、繁栄を享受出来ている面もある。今のままで良いのでは? 矛盾を包含したものも世の中じゃない?という思いも前よりも強くなってきたと思います。

そういう考え方に影響を与えたものの一つに内田樹さんの憲法論があります。「憲法の話」 (2007年05月03日)があります。
二つの対立する能力や資質を葛藤を通じて同時的に向上させることを武道では「術」と言う。

「平和の継続」と「自衛力の向上」を同時に達成しようと思ったら、その二つを「葛藤させる」のがベストの選択なのである。
九条と自衛隊が矛盾的に対立・葛藤しているという考え方は、『九条どうでしょう』でも詳述したように、戦後の日本人がすすんで選んだ「病態」である。

...

本来は存在しない九条と自衛隊の葛藤を苦しむという不思議な病態を演じることを通じて、日本人はその「疾病利得」として、世界史上例外的な平和と繁栄を手に入れたのである。

この「演じる」ということはキーワードかもしれませんね。

さて、もとの森巣博氏の主張に戻ります。私はこれは全面的に「正論」だと思います。括弧付きの「正論」は、「そうは言っても」という諦観を含みます。そこは「絶対に守らせる」というところが共有認識になっていないところにあります。まずそこが共有認識になるまで、私は「護憲」の立場をとるでしょう。

追記: 藤代裕之@ガ島通信さんが、「[ニュース・時事ネタ]投票完了」で、「投票完了」のトラックバックもお待ちしています、ということですのでトラックバック送ります。