2020/06/07

"Black Lives Matter" の訳が「黒人の命は大事だ」に違和感


全米で "Black Lives Matter" の声が沸き上がっている。

HuffPost 2020/5/31『#BlackLivesMatter』企業も黒人差別に抗議、力強いメッセージ続く Netflix「私たちには声を上げる義務がある」
毎日新聞 2020/6/6 巨大な黄色文字で「BLACK LIVES MATTER」通り ホワイトハウス前に

この "Black Lives Matter" の日本語訳は「黒人の命は大事だ」とされていることが多いようだ。

しかし、そうすると「黒人以外の命は大事ではないのか」とか「本来 "All Lives Matter"であるべきだろう」という声が上がって来る。

これは "matter" の日本語訳を「大事だ」としていることに起因していると思う。

新英和中辞典 "matter"
動詞 自動詞[しばしば否定・疑問文で] 問題となる,重要である 《★【用法】 進行形・命令文にはならない》.
What does it matter? それがどうしたと言うのだ(かまうものか).
It doesn't matter a bit if we are late. 遅くなっても少しもかまわない.
Nothing mattered to him. 彼には何がどうなってもかまわなかった.
というように、確かに「重要である」はあるのだが、否定形で使われることが多いということ考えると、否定形 "don't matter" (どうでもいい) の否定「どうでもいいなんてことはない」と訳すべきものだと思う。

この "matter" の使い方は、マイケル・ジャクソンの "Beat It" で覚えた。
It doesn't matter who's wrong or right.
誰が正しくて誰が間違っていようと関係ないさ
(対訳:内田久美子 (ライナーノーツより))
"don't matter" (どうでもいい) の否定とみることにより、これまでは "Black lives don't matter" という状態だったということを認識できると思う。そして "All Lives" に対して否定している訳ではないということを理解いただけると思う。

参考: 以下では"Black Lives Matter" の訳を「黒人の命も大切」としている。本来の意味を伝えるには、この「も」ということがポイントだろう。
Harpers Bazaar 2020/06/03 なぜAll Lives Matter(すべての命が大切)」と言うのをやめる必要があるのか

2020/04/05

パンデミックと人権 (3) 様々な差別

この新型コロナウイルス肺炎 (COVID-19) の蔓延に伴い、様々な差別が浮き彫りになっている。

人種差別・民族差別

新型コロナウイルスが最初に問題になったのが中国で、このため中国人、さらには欧米人には区別がつきにくい日本人も差別にあっている。

 一般論は怖い。「中国人は」「大阪人は」「名古屋人は」、あるいは「白人は」「女は」「おっさんは」と属性でひとくくりにするのは、そう語る人自身の過去の残念な体験や、意地の悪さを映し出すだけなのに簡単には改まらない。特にこの新型コロナウイルス禍では、一般論好きの人たちがにわかに元気になり、差別と呼ぶのも恥ずかしいような無知、偏見をさらし始める。
自分の「外」と「内」を分け、「外」を排除するのは、 自分を守るための防衛本能から来ているところがあるだろう。しかしそれを起因する属性以外に広げることと、その「外」に対して攻撃を加えることが差別になる。ここで「起因する属性」というのは「新型コロナウイルスに感染しているか否か」であって、アジア人か否かは無関係だ。また、感染する人から距離を置けばいい話であって、攻撃する必要はない。

しかしそういう差別意識は、人はだれしも持っているものだろう。なくすのが難しければ自制して表に出さないのが、これまで人権重視が人間の共通の価値観であることを学んできた教養によるものだろう。しかしその自制は非常事態では忘れられていく。

その差別意識は簡単に利用される。トランプ大統領が『中国ウイルス』と呼んでいるは自分たちの無策を隠すため、日本でも麻生太郎副総理が「武漢ウイルス」と呼んだが、ボスカーさんは「これも無知だけではないだろう」と言っている (無知はもう前提としてある訳だ)。ちなみに、COVID-19 という病名は、発生した土地の名前をつけるとずっと偏見が残るからあえて土地の名前を付けないようにしたということだ。それでもトランプ大統領や麻生氏のように意図的に無視する人間が出てくる。

ここで「差別や憎悪はメディアやネットを通じて広がるので時にウイルス以上に“感染力”が強い。たちが悪いのは自分が『感染』していると思っていない点だ」という作家ショーン・ボスカーさんの言葉を皆が意識することが重要だ。

米国最高裁は「差別」と「区別」に明快な線引きを行っている。

米国最高裁は対象事件での「仕分けの性質」を問うことにした。具体的には「黒人ならこれはダメとか、女性ならあれはダメ」など、自分ではどうすることもできない、生まれ持ったステータスをもってして、特定の権利を受ける人・受けられない人を「仕分けていないか」を問うのである。
これは各個人が自問自答できる基準であるだろう。

左記記事より
そして日赤の訴えも参考になる。

「ウイルスは心の中にも感染する。特効薬やワクチンはないので自分で連鎖を断ち切るしかない。」
他の記事:

差別的な言葉は間違いなく人を傷つける。人を絶望に陥れる破壊力がある。
感染者・医療従事者への差別

感染者、感染者と接触した人、医療関係者への差別も続いている。

 医師と看護師の感染が確認された兵庫県小野市の北播磨総合医療センターでは、感染者と接触していない職員や患者、家族らから「ばい菌扱いされた」「勤務先から出勤停止と言われた」などの訴えが相次いだ。ライブハウスでクラスター(感染者の集団)が発生した大阪市では、別の店舗の経営者から「感染リスクが高い『危ない場所』との風評被害が出ている」との声が上がる。
差別であるだけでなく、「このままでは、感染者が立ち寄り先などに迷惑が掛かると感じ、保健所の行動歴聞き取りに正確な情報を話しにくくなる恐れがある」ということだ。


日本赤十字社が公表する「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に対応する職員のためのサポートガイド」の中で
「未知のウイルスは私たちを不安に駆り立て、ウイルスを連想させるものへの嫌悪・差別・偏見を生み出し、人と人との間の連帯感や信頼感を破壊します。私たちの誰もが、これら3つの感染症の影響を受けていますが、最前線で対応する職員はその影響を最も強く受けることになります。COVID-19対応においては、感染対策(第1の感染症対策)はもちろんのこと、第2、第3の感染症が職員に与える影響を考慮に入れながらCOVID-19対応者へのサポート体制を構築していくことが極めて重要となります」
と記載しているそうだ。

医療関係者による患者差別

医療関係者による患者差別もあるという。


差別の対象は精神科にかかっている感染者だ。精神科特有の難しさがあるかららしい。彼らをコントロールするのが (まだ) 長けている精神科医と感染病専門医で協力することで対応が可能でないかと思う。

2020/04/01

パンデミックと人権 (2) 感染者のプライバシー

だんだん感染経路が把握できない感染者が増えている ...

クラスターになればライブハウス、病院、大学名が特定される。一方、クラスターにならなければ名前が出ないので、どういうところを避ければいいのか判断がつかない。

クラスターを特定するのにこだわるからではなかろうか。感染経路が分からなければ可能性あるところを全部挙げればいいじゃん、と思う。

それぞれの感染者の名前をマスクして、自宅近辺を除き通ったところ立ち寄ったところを全部集めて重ねる。多くの人が通ったところはそれに応じて濃くなる。それによって危険な地域をあぶりだす。夜のお店はお店の協力が得られないというのであれば街の名前だけ出す。

これなら感染者個人のプライバシーも守られ、お店の立場も守られるのではないか。その店のある街にとっては迷惑かもしれないが、個々の店で感染対策をしっかりしてそれをアピールすればよい。

ということを考えていたら、こんな記事があった。

Courrier 2020.3.28 ユヴァル・ノア・ハラリ「非常事態が“日常”になったとき、人類は何を失うのか」
うっかりしていると、今回のコロナ危機が、「監視の歴史」における重大な分岐点になるかもしれないのだ。大量監視ツールの標準展開が、それまで展開を拒否していた国で続々と実施されるかもしれない。「皮膚より上」から、「皮膚の下」の監視へと劇的な移行が起きているだけに、その懸念は強くなる。 
プライバシーか、健康か。両者の二者択一を迫られれば、たいていの人が健康を取るだろう。
このあと両方をとるべきという方向性が示されるのだが、そのまま押し切られる恐れが大きいと思われる。

このことに関してはこのパンデミックが終息してからが本当の試練だろう。心しておきたい。

追記:

対応が評価されている韓国だが、過剰な対応が批判されている。
東京新聞 2020.04.02 コロナ対策で浮かび上がる「監視社会」韓国 個人情報をここまでさらしてよいのか

NHKでも取り上げられるようになった。
NHKニュース 2020.04.17 ビジネス特集 新型コロナで迫られる“選択” さよならプライバシー




2020/03/31

パンデミックと人権 (1) 行動の制限

だんだん感染経路が把握できない感染者が増えている ...

自分が感染しているかどうかわからない人から感染が広がっているということだろう。

そうするとPCR検査を積極的に行って、陽性の人を隔離する必要があると考えるが、そうすると医療崩壊が起こると言われている。幸い発症しても軽くで済む人が多いようなので、陽性の人を病院に入れるのではなく自宅隔離か特別の施設で隔離するようにすれば良いのではないかと考える。今はそうできないということみたいなので、必要なら時限立法等必要かもしれない。

自宅隔離がうまくいかないという話もある。

ブルームバーグ 2020/03/02 自宅隔離は感染広げる、武漢の轍を踏まぬよう-中国がイタリアに警告
研究者らによると、自宅隔離では家族への感染防止を徹底しないばかりか、自由に外出を続けて外で第三者にうつすことも多い。イタリア紙コリエレ・デラ・セラが30日報じたところによると、同国当局が28日に外出禁止の取り締まりを強化したところ、違反者のうち約50人が自宅隔離を指示された感染者だった。
やはり特別の施設が必要なのか。
武漢では2月初めにオフィスやスタジアム、体育館を転用した仮設病院に症状の軽い患者を全て隔離し始めてから、感染拡大が劇的に鈍化した。
現在イベントが中止になっているのでスタジアム、体育館の転用は比較的容易なのではないか。 利用料を国費で出せば損失の一部の充当にもなる。イベント主催者にも何らかの形で行くようにできればいいが、そこまでは出せないかもしれない。

症状が出ていなくて、検査を希望している人もたくさんいるらしい。希望者にも検査をばんばん行って、安心して隔離施設に行ってもらえば良いのではないか。

検査は100%正確ではなく、陰性の人も偽陰性の可能性がある。このため、陰性の人も自宅隔離にするという条件を飲んでもらう。数日開けて再度検査し再度陰性ならば自宅隔離をといても良いだろう。

ただ、隔離は行動の制限であり、自由権の侵害という側面はどうしても出てくると思う。陽性の人を隔離するのはこれまで行われてきている訳で、議論の上で結論が出ているのだと思われる。ここで私が陰性の人も行動の制限をすべきだと言っているのはその範囲外だろう。このため「希望して条件を飲んだ人」に限定した。

しかし都市封鎖という事態になれば、外出自粛ではなく諸外国のように外出禁止という措置が取られるかも知れない。これは健康な人も含めての話だ。今回人権先進国の西欧諸国で次々と外出禁止などの施策がとられているのは正直びっくりした。どういう根拠に基づきそういう命令が出せるのであろうか。そして日本でも同様なことができるのだろうか。

日本経済新聞 2020/03/30 緊急事態宣言発令なら知事に権限 自粛要請、強制力なし 官房長官「ぎりぎり持ちこたえ」 から引用:


緊急事態宣言が出されても「外出自粛」のままで、強制力はないという。強制力のあるものは財産権の侵害にとどまっている。人権の面では抑制されたものになっているのだが、パンデミックを抑えるのに諸外国のような強権的なことができなくて大丈夫かという懸念も出てくる。

人命と人権ではどちらが大事か問われればそれは人命なのだが、それによって人権がどこまで制限されて良いのかというのは考えていく必要があるだろう。

追記: 東京都が軽症者の隔離のためホテルを借り上げるようにするという。

都は軽症・無症状の患者は、病院外で療養させられるよう感染症法の運用見直しについて国と最終調整しており、受け入れ先と想定するホテルと交渉も始めた。
これをみると、時限立法は必要なく、感染症法の運用見直しですみそうだ。

そして厚労省も動いた。

厚生労働省は3日、新型コロナウイルスの感染の拡大状況に応じて、軽症者や症状がない感染者について、自治体の用意する施設やホテル、自宅での療養を検討するよう都道府県などに通知したと発表した。

2020/03/03

画家が見たこども展

3月15日から三菱一号館美術館で始まった「画家が見たこども展」、現在は新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡散防止のため臨時休館になっているのですが、その直前の2月26日にブロガー内覧会が行われ、参加してきました。ギリギリのタイミングでしたね。

ブロガー内覧会自体も感染予防のため、高橋明也館長 (左) とTakさん (右) によるギャラリートークは取りやめということになっていたのですが、館長の挨拶だけは行うことになり、最初の部屋モーリス・ブーテ・ド・モンジェル《ブレのベルナールとロジェ》の前でお話がありました。

挨拶だけではなく、この展覧会の位置づけなどもお話いただきました。

三菱一号館美術館では、これまでもナビ派の展覧会を行ってきて、ナビ派をプッシュしてきたと言っても良いでしょう。19世紀頃から聖母子像など以外も子どもは題材として扱われるようになりましたが、特に日常の生活、家族を扱うナビ派では、子どもは重要な対象になります。そこで、ナビ派を中心として子ども

そして今回は南フランス ル・カネにあるボナール美術館の協力を得て、ボナール作品が多く集まっています。三菱一号館美術館所有もヴァロットンも多く出展されていました。

ただちょっと可愛い子どもの絵を期待している人にとっては物足りないかもしれません。以前森アーツセンターで行われた「こども展 名画にみるこどもと画家の絆」(→ ブログ記事「こども展」) では、「難しいことを考えず、かわいいと楽しんでもらえば良い」ということだったので、その点に主催者側のこだわりの差が出ているものと思います。

その中から、可愛い子どもの絵を選ぶと、左のドニ《サクランボを持つノエルの肖像》 があります。ドニはポスターに使われている《赤いエプロンドレスを着た子ども》も可愛いです。

ほとんどが絵画作品でしたが、彫刻作品もあります。左はジョルジュ・ラコンプの《シルヴィの胸像》、右の絵画作品は同じくラコンプの《立つシルヴィの肖像》です。

最後の部屋にはボナールの晩年の作品がありました。ナビ派がそれぞれの道を歩む中ボナールは風景画を中心に描くようになっていたのですが、最後にまた子どもという題材に回帰したということです。

美術館は密集した場所でとどまる訳でもないし、手で触るものもないので、ウイルス感染のリスクは少ないと思うので、休館するというのは過剰反応のように思います。山場の期間を過ぎた3月中旬以降は美術館あたりから徐々に活動を活発化させた方が良いのではないでしょうか。

なお、写真は特別の許可を得て撮影しています。

開催概要
画家が見たこども展 ゴッホ、ボナール、ヴュイヤール、ドニ、ヴァロットン
https://mimt.jp/kodomo/
場所:三菱一号館美術館 (東京都千代田区丸の内2-6-2 (Google Map))
会期: 2020年2月15日(土)~ 6月7日(日)
開館時間: 10:00〜18:00 ※入館は閉館の30分前まで
    (祝日を除く金曜、第2水曜、4月6日と会期最終週平日は21:00まで)
休館日: 月曜休館
    (但し、祝日・振替休日の場合、開館記念日4月6日、
     会期最終週6月1日と、トークフリーデーの3月30日、
     4月27日、5月25日は開館)
    ただし、2月28日から3月16日の期間臨時休館

2020/02/16

ダムタイプ

昨日、東京都現代美術館で、ダムタイプのアクション+リフレクション を見て、ラウンドテーブルトーク も聞いてきた。

もともと、2月16日に会期終了になる3つの展覧会を見る予定で出かけた。
東京都現代美術館が10:00 オープンで、この順番で行くのが効率的かなと判断した。

開館前に着いたが、チケット売り場にすでに行列ができていてびっくり。そこで3つの有料展覧会があって、セット割引に惹かれ、ダムタイプもあわせて見ることにした。ダムタイプは、NTT-ICCのダムタイプ特別上映で《memorandum》を見て難解だったのでちょっと心配だったのだれど、インスタレーションもあるだろうしまあいいかと判断。

実際に見たら、展示自体は数が少ないものの、やっぱり選択して良かったと思った。

右は《Playback》。16台のターンテーブルがそれぞれ異なった音源から採られ、針が上がったり降りたりして同期再生される。

《MEMORANDUM OR VOYAGE》は、《memorandum》(上記)、《OR》、《Voyage》という3つの作品の映像を組み合わせて作った映像インスタレーション。大画面で迫力がある。

ディスプレイはソニーの協力のようだ。横浜みなとみらいの資生堂グローバルイノベーションセンターS/PARKにある大画面LEDディスプレイと同じものかもしれない。

最後の部屋には《pH》と《LOVE/SEX/DEATH/MONEY/LIFE》が組み合わせて展示してある。



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一つの作品だと思っていたが、手前の移動しているのが《pH》で、奥が見ての通りの《LOVE/SEX/DEATH/MONEY/LIFE》。《pH》は移動している領域に入ってもいいけど、奥まで行き着くと戻ってくるので慌ててみんな戻ることになる。

出口近くに「テーブルトーク」という名前のトークイベントの案内がある。本日15:00からで、それまでまだずいぶん時間がある。失敗したな。午後にこっちにすれば良かった。と言っても仕方がないので、一旦六本木まで戻って国立新美術館でDOMANI・明日2020を見てからもう一度来ることにした。

戻ってきてみたらチケットを買う列が外まで伸びていたので、やっぱりこの順で正解だったと思った。

テーブルトークはケーキとお茶で壇上で語り合う形式。ダムタイプの高谷史郎さん、砂山典子さん、濱哲史さんに、モデレータの長谷川祐子さんが質問して話を進める形式だった。砂山典子さんといえば、「スカートの中、はいってみる?」の作品「むせかえる世界」のアーティストだった。ダムタイプのメンバーだったんですね。

トークのテーマは「パフォーマンスをどのように展示にするか」。ダムタイプは基本的にパフォーマンス集団で、それを人がいなくても見ることができる形式 (インスタレーション) にするかということになる。通常このよーなトークは最初に作品の映像を見せながら解説するのだが、今回はそういう映像は常にスライドショーで切り替わっているだけで解説はなく、ダムタイプの作品を知っている人でないと付いていくのは難しい。というか、私は全然付いて行けず、正直苦しかった。

その中で興味を惹かれたのは、ダムタイプはスーパースターがいるグループではなく、「みんなで考えて作っていくシステム」のことを「ダムタイプ」と考えているというところ。 常に話し合いで決めていて、以前は毎晩そうしていたが、周1回にしたらとたんに時間がかかるようになったという。新しいメンバーとして加わりたいというの拒否しないが、参加の条件は明確ではないということだ。

NTT-ICCのダムタイプ特別上映の《memorandum》以外の作品も見てみるかな。

トークが終わった後、MOTコレクション展も見てきた。オノサト・シノブ、末松正樹など、これまで知らなかったアーティストを知ることができた。岡本信治郎はあいちトリエンナーレ2013で見たはずだが、すっかり忘れていた。今回は右の《ころがるさくら・東京大空襲》など印象に残る大作が出ていた。

2020/02/03

フューチャー・デザイン・ワークショップ 2020 Day 2

1月25日、26日に、フューチャー・デザイン・ワークショップ 2020 が行われ、その2日目を聴講に行きました。

フューチャー・デザインとは何か。未来を現在の延長線上として考え改善していくのではどうしても今直近の問題が重要視される。これに対して、フューチャー・デザインは、まず未来の姿を想像しそこからそのために今やらなければいけないことを決めていく。とはいえ人間は現在の問題にとらわれがちなため、「将来世代になったつもり」の人間を作って将来世代の代理をさせるという手法を使う。

SDGs (Sustainable Development Goals) も世界の改革を目指しているが、現在ある問題を解決する複数のゴールを目指すとは対照的だ。

しかしフューチャー・デザインはまだSDGsほど広まっていない。良いアイデアならもっと広まっても良さそうではある。実現にはいろいろ課題もあるのだろう。このワークショップではそういう点も意識して学びたい。

「世代間倫理における責務と互恵性」 廣光俊昭 (財務総合政策研究所)

例えば現世代が限りある資源を費消すると将来世代はその分使える資源が減る。将来世代のことを考えれば現世代が困窮しても将来世代のために資源を残しておくべきである。これは現世代の人間にフリーハンドがある状態を基準とすれば、将来世代のために自分たちを犠牲にするということである。自分の血の繋がった子に対してならばともかく、何世代も先のしかも全世界の人間のために犠牲になるのが受け入れられるか、ということになる。「互恵性」はそのような一方的な「恵」の受け渡しではなく、将来世代の幸せが現世代にとっても幸せに繋がるという考え方。近い将来で言えば、現在世代の一員である若いせ世代が自分が年齢を重ねるごとに世界は貧しくなっていくという未来が見えているとき、はたして現在世代の秩序を守るインセンティブがあるかという問題になる。そうすると将来世代も今と同じ状態またはよりよい未来があるほうがいいよね、ということになる。

しかしそういう理想的な考え方もなかなか通用しない。現実的に我々日本人は将来世代に「恵」をわたすどころか借金を残している。「国の借金は自分からの借金だから問題ない」という人がいるけど、母ちゃんから借りているんじゃなくて自分の子どもから借りてるんだよ。じゃあ増税して国の支出も抑えるべきかというと、それで経済が低迷したらその低迷した経済を子どもたちに残すことになるので問題はやっかいだ。

自分の世代で使う資源と次の世代に残す資源をシミュレートする世代間持続可能性ジレンマゲーム (Intergenerational Sustainability Dilemma Game, ISDG) (A/Bゲーム) * というものをこのワークショップで初めて知ったが、これが複数の発表で取り入れられていることを見るとなかなか解決しない問題ということがわかる。
* 西條 2018「フューチャー・デザイン:持続可能な自然と社会を将来世代に引き継ぐために」(PDF)

「リーディングプログラムにおける“フューチャー・デザイン”ゼミ活動」 フューチャー・デザイン ゼミ(田中徹他) 慶應義塾大学大学院博士課程 教育リーディングプログラム

慶應大学には「リーディングプログラム」という仕組みが2つあって、もう一つシンギュラリティ・ゼミは「サイエンス・フィクションワークショップ」というテーマで午後に発表がある。このプログラムのユニークなところは、文理融合 (13学科) でどこかの学科に属している訳でなく、文系と理系で二つの専門、二つの修士号をとるところ。そしてフューチャー・デザインは最後に「政策提言」を行う。

興味をひいた概念は「ネガティブケイパビリティ」と水口氏が発表した「Fantasy Future Design」。

「ネガティブケイパビリティ」は、答えの出ない事態に耐えうる能力のことで、私もそうだが受験のための教育を経ているとどうしても「正解」があるという前提で物事を考えがちになり、「正解」がないと不安になる。それを乗り越える力が「ネガティブケイパビリティ」ということだろう。

フューチャー・デザインでは、仮想将来世代人間と現代世代人間が議論を行い合意形成を行うが、合意形成が難しいなどの欠点がある。「Fantasy Future Design」は、地球人の視点を捨て、仮想の地球の現在と未来をよそ者 (宇宙人) の視点で議論する。利害関係のないよそ者の視点をもつことで、現在の視点と将来世代の視点を同時に持てるという利点がある。

「フューチャー・デザインの政策応用の可能性と効果」原圭史郎 (日本学術会議、東京財団政策研究所、大阪大学大学院工学研究科)

政策応用は、2015年に岩手県矢巾町で初実践され、「仮想将来世代の創出」というレポートにまとまっている。 現世代と仮想将来世代の交渉、合意形成を行った結果、多くの将来案が採用された。 2017年には、グループを分けるのではなく「個々人での視点移動」という取り組みを行った。その結果、提案施策が、最初はハコモノ改善というものが中心であったのが、生活の質、現在・将来の関係性を配慮したものに変わっていった。2018年から本格的な応用が始まり、2019年には矢巾町総合計画 未来戦略室ができたほか、吹田市、京都市にも広がった。

「ニューロサイエンスを活用したフューチャー・デザイン研究」青木隆太 (首都大学東京) 

fMRI を用いて、フューチャー・デザインを行っている時の脳の働きの違いを調べた。ひとりISDG (ABゲーム) をMRI内で実施した。将来から考える実験群と、現在から考える対照群で、rTPJ (右側頭頭頂接合部) に違いが出た。

全体ディスカッション (モデレーター:小林慶一郎 (東京財団政策研究所))

もともと小林氏の総括的な発表の予定だったが、時間も少なくなってきたので全体ディスカッションに変更。みなさん色々言いたい人がたくさんいるコミュニティのようで、盛り上がっていた。私も結構質問する方で、今回もSDGsに関してどう思っているのか聞きたかったのですが、遠慮しました。

興味深かったのは、宗教とFDの関係についてのコメント。最初の発表であった社会的持続性はこれまで宗教の機能としてあったものではないかというもの。そうするとFDは科学的ではあるけれども新しい宗教ということになる。宗教とみなされると既存宗教から、その信奉者からは避けられてしまうだろう。むしろ既存宗教の中に組み込まれるような、フューチャー・デザインの論理武装が必要じゃないかと感じた。