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2023/09/03

アートとAI その2 - 人工知能美学芸術展2023

 9月2日、人工知能美学芸術展2023「AI芸術の先駆と拡張」 に行ってきた。

旧東京音楽学校奏楽堂
人工知能美学芸術展2023 @ 旧東京音楽学校奏楽堂
「AI芸術の先駆と拡張」
〜自動ピアノ・四分音・生成AI〜
https://www.aibigeiken.com/exhibition2023/index.html

以下のような実験的な試みが含まれている (上記より)。

  • 人工知能 (AI) 以前の技術である自動ピアノのための作曲を、「AI芸術の先駆」と位置づける。
  • 人間には耳慣れない四分音による作曲を、「人間美学の拡張」と位置づける。
  • 今日の生成AIによる作曲や作画を、「AI芸術の拡張」と位置づける。
  • これら三者の交わりから、未知の機械美学が立ち現れるということはないだろうか。

自動ピアノも四分音もAIとは直接関係がないが、人間の美学と異なる / 超えた「未知の機械美学」を追求するものであると理解した。

第一部は、自動ピアノのための作曲。コンロン・ナンカロウ (1912-97 メキシコの作曲家) が作曲した「自動ピアノのための習作」11曲が演奏された。

自動ピアノは基本的には人間の演奏をロール紙にパンチすることで記録し再生することを目的とした機械。しかしナンカロウは直接手動でロール紙にパンチすることで「作曲」する。このようにして作られた曲は、指が10本しかないというピアニストの制約を受けずにすむ。さらにナンカロウはリズムや拍子からも自由になった作品を作曲していく。

例えば≪自動ピアノのための習作第37番≫では、12対のカノンの組み合わせになっている。


上記YouTubeではスコアが可視化されているのでどのような組み合わせになっているか理解できると思う。私も当日の生演奏を聴いてリズムやメロディーが把握できないのでただ聴いていたに過ぎなかったが、この動画で初めてなんとなく理解した。

第一部の最後には、Meta社が開発した音楽生成AI MusicGenで作曲された音楽が自動ピアノにより演奏された。今回が初演だったそうだ。どのような指示 (プロンプト) を与えたか分からないが、ナンカロウよりさらに難解 (なんか駄洒落を言いたい気分)。

第二部は、シンポジウム (主宰の中ザワヒデキさんと草刈ミカさん、音楽学者の柿沼敏江さんの鼎談) と、四分音を使った演奏。

四分音を使った演奏は、自動ピアノと、1/4音ずつずらして調律したピアノを人間のピアニスト (大瀧拓哉さん) が演奏する形で行われた。前半はピアノ教則本ハノンから、後半はやはりMusicGenで索居した作品。


上記写真、向かって左が自動ピアノ、右が1/4音ずつずらして調律したピアノ。背面のスクリーン右が自動ピアノの鍵盤 (とロール紙)、左が自動演奏中に回転するホイール。

四分音を使うということで、それに耐えられるのか戦々恐々としていた。しかしそれはなんともなかった。よく考えたら音階を聞き分ける耳をもっていないのであった。むしろリズムやメロディーが把握できないところでそれ以上は何を聴いても同じだったのだろう。

さて、主宰者側の「未知の機械美学」を追求するという意図に戻って考える。私は以前、「アートとAI」で、

  • アーティストに一般人にできない発想を提示することに存在意義があるなら、AIもそのようなことができるだろう
  • AIが提示する「新しい発想」の中から意味のあるもの、価値のあるものをふるい分けるのは人間、アーティストであろう
  • アーティストがその価値をAIの評価関数として与えることができるかもしれない

と書いた。

私がもつ大前提として、「価値のあるもの = 美学というのは、人間にとって価値があるもの」という価値観があったと言えよう。

しかし、彼らはそう思っていないようだ。

毎日新聞 2023/8/30 美術家も見届けたい AIが自らの意志で芸術を生み出す瞬間

 疑問がわいた。たとえ、AIが自発的な創作を始めたとしても、人間がその営みを評価しない限り芸術にはなり得ないのでは、と。すると「いつまでも人間が評価する側にいられると思わない方がいいですよ」と中ザワさんから返ってきた。さらに「AIが創作もするし、鑑賞もするようになれば、『これを良いと思わない人間はだめだ』と言いだすかもしれません。いずれ、AIの方が賢いかもしれないという負い目が人間には生まれます。そんな時、新たな芸術の価値観をAIが打ち出したらどうでしょう」と。

これは感性におけるグラウンディング = 実際の知との接続が不要だということだろう。いや人間側からAIの感性と接続する必要があるということか。

音楽においては、最初は単純なリズムが生まれ、音階からメロディーが生まれ、和音、ハーモニーが生まれてきた。だんだん新しい概念を取り入れ消化して行った歴史があるのだろう。そういう意味では今後受け入れられる可能性はあるとは言える。

音楽と美術、文芸との違いも大きいだろう。美術は見えるもの=具象とつながってそこから抽象絵画に派生してきた。文芸・文学は一部の詩を除いて常に具体的な単語を通じて日常とつながっている。それに対して音楽は最初から抽象と言える。具体的なものとの接続がないので、どこまでも遠く行ける可能性がある。

しかしやはりまだリズムに心動かされる部分は大きいのではないか。テンポ、リズムから自由になるのは今までもできたはずで、ナンカロウ以外にも取り組みがあったそうだが、まだポピュラーになっていないというのは、やはり人間の限界と言えるのではないか。

と、いろいろなことを考えたのでした。答えはありません。

2023/04/21

ChatGPTに南京事件について聞いてみた

 ChatGPTは知らないことでも答えてくれる。その場合、ウソも混じっているというより、基本うそばっかりだ。→ うえぶろぐ.info BizTech ChatGPTで遊ぶ (1) エゴサーチ

でもよく知られていることの場合はウソはないのではなかろうか。

試してみた。

Q: 南京事件での犠牲者数はどれくらいでしょうか。エビデンスを含めて示してください。

ChatGPT:

南京事件(1937年の日中戦争中の南京市での大量虐殺)における犠牲者数については、正確な数字は不明であり、歴史的な議論が続いています。しかしながら、一部の研究者は、数十万人の民間人が殺害されたと推定しています。

以下に、南京事件に関するいくつかの研究と推定される犠牲者数を示します。

  • 国際連合調査団の報告書(1945年)によると、南京市内およびその周辺地域で20万人から30万人の中国人が殺害されたとされています。
  • 中国人民解放軍南京解放紀念館は、南京事件で30万人以上の民間人が殺害されたとしています。
  • 日本の外務省が発行した調査報告書(1946年)では、死者数は13万人から20万人であるとされています。
  • 日本人歴史家の松本健一は、南京市内で死者10万人、市外でも同様に10万人以上が殺害されたという推定を行っています。

犠牲者数に関しては、証拠や主張が異なることから、確定的な数字を示すことは困難です。ただし、南京事件は多数の民間人の殺害、強姦、略奪などの戦争犯罪が行われたことが証言や記録から明らかになっており、重大な事件であることは否定できません。

「確定的な数字を示すことは困難、だが、多数の民間人の殺害、強姦、略奪などの戦争犯罪が行われたことが証言や記録から明らか」と、穏当な書き方になっている。とはいえ細かいところはどうだろうか。

  • 国際連合調査団の報告書(1945年)→ そんな調査団はなさそう
  • 南京解放紀念館 → 30万人と言っているという記述自体は正しそう (Wikipedia 「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」によれば「紀念館の館長は、30万人という数字は、南京に至るまで日本軍が戦争しながら殺害した人を含めた数字であり、南京市内にいなかった人を含む数字であると説明した」とある)
  • 外務省が発行した調査報告書(1946年)→ 確認できなかった
  • 日本人歴史家の松本健一 → Wikipediaの記述 「南京事件」に、以下のような参考文献があった
    秦郁彦、東中野修道、松本健一「決定版「南京事件」最新報告は「捕虜処断」をどう見るか」『諸君!』 2001年2月号,pp128-144.
    「諸君!」だからこんな多い数字だ出るはずがないと思ったが、その内容を記載したと思われるページを見ると、松本は『中国人にとって、「大虐殺」というのは、「大量の人々が惨たらしく殺された」というほどの意味であって。人数が三千であろうが、三十万であろうが、「大虐殺」にかわりはないわけです』と発言しており、また、『一方では、一九三六年に南京市が正式に行った人口調査では百二万という数字が出ていて、南京戦後の一九三八年の八月の調査で三十万八千となっている。この二つの数字は公的なもので信憑性が高いのですが、この間の七十万の人口減をとらえて、逃亡を別にして、二十万、三十万の虐殺があったと主張する推論もありうるわけです』と、むしろ「無かった」説に反論する立場をとっている。
この松本健一の南京事件に関する発言を探す中で、こんな本が出ていることも知った。

もう一度ChatGPTに聞いてみます。

Q: 南京事件は本当はなかったんじゃないでしょうか。そういう主張を多く見ます。

ChatGPT:

南京事件の存在について疑問視する主張が存在することは事実ですが、歴史的な事実や証拠から見ると、南京事件が実際に起きたことは確かです。

南京事件は、1937年に日本軍が占領した南京市で、多数の中国人が殺害、強姦、略奪などの戦争犯罪を受けたとされています。この事件は、戦時下における多数の目撃者、生存者、日本兵や外国人の証言、報道、写真、映像、文書、国際社会の報告書などによって裏付けられています。

例えば、南京事件を目撃した中国人や外国人の証言や報告書は、多数存在しています。また、南京事件についての証言や報道は、当時の日本の新聞や雑誌、海外メディアにも掲載されており、それらは今でもアーカイブされています。さらに、南京事件についての写真や映像も多数残されており、それらは現在でも確認することができます。

このように、南京事件は多数の証言、報告書、写真、映像などから確認される、歴史的な事実です。そのため、南京事件が存在しなかったと主張することは、証拠や事実を無視した、否定的な主張であると言えます。

エビデンスを求めなかったのもあって、ここではきっぱり断言している。「なかった」派の主張を聴くのは時間の無駄という思いさえわいてくる。


2017/11/04

アートとAI

11月3日に行われた、ヨコハマトリエンナーレ 「ヨコハマラウンド」ラウンド8<より美しい星座を描くために: アートの可能性とは?> の中で、スプツニ子! 氏から、
世の中は記号であふれている。皆が全てのものに対してカテゴリーに当てはめて理解している。そのほうが理解が簡単だから。しかしアートはそのカテゴリーをはみ出す。そのはみ出し方は無限にあり、世の中の問題の解決策も無限にあるのではないか。
という趣旨の発言があった。この、「アートは今までの常識を覆してくれる。新しい発想を提示してくれる」というのは、これまでも繰り返し言われてきたことであろう。

また、AIが作るアート (イアン・チェンの作品、ゴッホ風の絵を描くAI) の話になり、
AIは評価関数で動く。これはAIに評価関数を与えると、それが高くなる方向へ動くということ。一方、アーティストは評価されるために作るのではない。AIがアートを制作するようになっても人間はアートを作るのをやめないであろう。
という話もでた。

確かにAIで作るアートが「ゴッホ風の絵」とか、既存の価値観での作品だったら、「新しい発想を提示してくれる」というのは期待できないであろう。それは音楽の領域でも同様で、小室哲哉氏は、
AIがどういう曲を作るかは、大体見えます。例えば「マニアックなジャズを」という絞り込み型の作曲はどんどんできる。オーダーを受けて作曲するなら、人よりはるかに優れた曲を作るでしょう。
...
「なんか聴いたことある」というなじみがない曲も、ブレークするのは難しい。
と語っている (AERA dot. 2017/8/31 AI作曲は「絞り込み型なら人間以上」 TM NETWORK小室哲哉)。

ここで考えたのは、アーティストが一般人にできない発想を提示することに存在意義があるなら、AIもそのようなことができるだろう、ということ。そう考えたのは、Google  DeepMind の AlphaGo が、人間の棋士では考えもつかない手を打つということから (これは小室氏も指摘している)。

ただし、AlphaGo は「勝つ」という単一の評価関数を持っている。アートに対して適切な評価関数は何だろう。そういう評価関数がなければ AlphaGo だってランダムな手を打つしかない。

そのランダムな中から、意味のある、しかも「新しい発想を提示してくれる」ものを選ぶ必要がある。それができるのはアーティストだろう。そういう評価関数を与えると言っても良い。

今回の議論の中で「美とは何か」という問いもあった。現代アートでは「美」は求めていないのかもしれないが、これまで印象派やゴッホが新しい「美」を提示したように、今後も新しい「価値」を見いだすのはアーティストだと思われる。

こういうことを考えて、「AlphaGoは単一の『勝つ』という評価関数で動くが、アートの場合は『新しい発想』ということが求められ、単一の評価関数はない。しかし、アーティストが評価関数を作ることでAIにアートを作らせる可能性があるのではないか」という質問をした。はしょりすぎですね。でもスプツニ子! 氏から「Googleの碁の棋譜を見ると人間では考えつかない展開があるそうだ。そのような可能性があるかもしれない」という回答をいただいたので、収穫があったと思います。

2008/08/11

グーグルで人間はバカになる!?

こんばんは。これでいいのだ。

COURRiER Japonの9月号に、「グーグルで人間はバカになる!?」という記事が出ていた。
かつては本に没頭したり、長い記事に読みふけったりすることは、日常の一部だった。展開されている議論にもすんなりと入っていけたし、長い文章を何時間も夢中になって目で追い続けたものだ。だが今では2〜3ページも読んだところで意識が移ろい始めることはしょっちゅう。落ち着きがなくなり、筋を見失い、気が散ってあたりを見回し始める。かつては自然に読書の世界に入っていけたのに、今では読み続けること自体がひどく難儀だ。
まあ、表題で「グーグル」を出しているのは実は釣りだな。筆者自身もインターネットを使うようになってからということは認めている。

ただ、グーグルが出てきたこと、そしてインターネットの情報量が増えてグーグルが必要になるくらいになってきたことは無縁ではないだろう。昔はYahoo!が整理してくれている情報で十分だった、というより、満足していたと言った方がいいか。

それ以外の要因もある。2ちゃんねると、はてブと、そしてブログもその原因だと思う。興味の対象が拡散しちゃったんですね。もちろんそれはいい面もある。というよりも、マスメディアに乗ってやってくる情報は、偏っていることが分ってきたのはこれらオルタナティブ・メディアのおかげであり、いまさら既存マスメディアに頼るわけにはいかないと思う。

この記事では、歴史をひもといて、いつの時代にも新しい技術がもたらす麩の側面があったことに言及していて、単なる感覚的な物言い、もっと言えばただの愚痴に堕する事のないよう配慮されていると思う。古くはプラトンの著書「ファイドロス」には、文字の発明を嘆くソクラテスが描かれているそうだ。人がものを覚えずに紙に書き付けることによって、記憶することを辞めてしまい、忘れっぽくなることをおそれていたという。今は「忘れられること」=「新しいことを考えらるのに集中できる」として肯定されているのにね。また印刷機の発明も同様に知的怠慢を招くことが懸念されていたそうだ。

しかしこの筆者がインターネットの影響を恐れるのは、また別の次元のことであるようだ。記憶ということではなく、考える能力が阻害されることを恐れている。
集中して活字の海に潜ることが尊いのは、著者の言葉から得る知識のためではない。著者の言葉が私達の意識に知的か共振を生じさせるためだ。
そしてそれはネットでは得られないと主張している。

確かに一連の主張は共感するところがおおいにある。しかし、流し読みするのはネットの情報だけであって、相変わらず印刷物はちゃんと読んでいるんじゃないかな。

それにはいくつか原因があると思う。

・ネットの情報は取捨選択しなければならない。「ウソをウソと判断できる人でなければ...」ってやつですね。
・ネットの情報自体が断片的。本を読めば体系的にある分野が俯瞰できた。今は自分で断片を組みあわせて体系づけないといけない。
・いつでも脱線できる、いつでも戻れる安心感。書籍の場合分らない部分があってもとりあえず先に進めないといけない。一方ネットだとその場で調べられる。
・[これはブロガーだけの話かもしれないが]、あまり読みすぎると自分の意見を書く時間がなくなる。さらには自分の(少数と思っていた)意見は既にネット上にあることが多く、そうすると自分の意見はユニークではないことになり、わざわざ書くモチベーションがなくなる。もちろん意識して読まないようにしているとは言えないだろうが、見てしまうと書けなくなるので積極的には他の情報を求めなくなる。

きっと文字が出来た後、記憶を外部化するという利点を捉えて利点を活用することが推奨されたように、ネット時代にはネット時代なりの使い方のベスト・プラクティスなんていうのが出て来るのであろう。

なお、考える力に関して言うと、ここにラリー・ペイジの発言が引用されていた。
昨年、ペイジは科学者を集めた会議で語った。グーグルは「本気で人工知能を構築しようとしている。しかも大規模に」と。
ここからHALにつながってくる。ターミネーターに出てくるスカイネットも同じような存在だろう。

先日聴講したパネルディスカッションで、原爆を開発した科学者の反省に基づき、「研究者は技術が社会に対する影響を考えなければならない」旨の発言があったのを思い出した。ストリートビューによってもたらされる違和感も、それらの考察がない無邪気な技術への信仰に対する警鐘なのだと思う。