3月11日、東日本大震災から7年後のこの日、六本木アカデミーヒルズで、森美術館「カタストロフと美術のちから展」プレ・ディスカッション・シリーズ第4回「フクシマ2011-2018」が行われました。
この「フクシマ」という表記は、当然福島第一原発の原発事故を思い起こさせます。登壇した森美術館キュレーター近藤健一によれば、
福島: ニュートラル
フクシマ、または、Fujishima: 原発事故という文脈で使う
ふくしま: 「復興」という文脈で使う
という使い分けがあるそうです。
今回「フクシマ」という表記を使っているからには、地震全般ではなく、原発事故にフォーカスした話になります。
今回Chim↑Pomから卯城竜太氏が登壇しましたが、Chim↑Pomは震災の1ヶ月後に事故現場の近くまで行って《Real Times》を発表し、岡本太郎の『明日の神話』に原発事故を象徴する絵を付け足すというゲリラアートを敢行し、そして2015年から福島県の帰宅困難地域で行われている誰も見ることができない国際展 "Don't Follow the Wind" の中心メンバー。
卯城氏は、当時の心情を、熱狂みたいなもので、「負け戦に挑む」気持ちと表現していました。ユーモアを含んだ作品にしたいという当時の思いを語りしました。そして今、その時に受け入れられていたユーモアが入れにくい状況にあると語っています。
福島県立博物館主任学芸員の小林めぐみ氏は、「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」について語ります。「はま・なか・あいづ」は福島県を大きく3つに分けた地域、浜通り、中通り、会津のことです。直接原発の事故で被災した浜通り、浜通りから避難してきた人がいる一方で自身も放射能の影響に怯え自主的に別の地域に避難する中通り、両方の地域から被災者を受け入れる会津地方。この3者に微妙な分断が生まれます。他県から「フクシマは大変ね」と同情される時、会津の人の中からは「いや会津は大丈夫だから」という声も聞こえてきたそうです。他の地域を助けなければいけないという気持ちの一方で、彼らとは違うと言いたい心情。
文化連携プロジェクトでは、福島のイメージのプラスへの転換、「記憶の記録」、「場を作る」ことなどがテーマです。「場を作る」は、「いわき七夕プロジェクト」などがありますが、分断された被災者をつなぐ意味があるようです。被災者は、緊急避難所から仮設住宅、そこから復興住宅に移るというように、何度もコミュニティからの断絶を経験することになり、新しいコミュニティに入るのに大きなストレスを経験します。コミュニティの分断、そのケアとしてのお祭りは、2016年に行われた東日本大震災5周年国際シンポジウム「大惨事におけるアートの可能性」(これは今回のプレディスカッションシリーズの1回目でもあったのですね) でも取り上げられました。
今回の話の中で出てきた最も大きなキーワードは「分断」だと思います。卯城氏は「阪神淡路大震災の時子どもだった人に話を聞くと、友達がみんな一緒で楽しかったという。阪神はそんな思い出話になっているが、福島はそうなっていない。福島は分断されている感じ。誰が当事者として福島のことを語れるのか、誰もが自分がやっていいものかと考えている」と語りました。
当事者の話は、阪神淡路大震災を扱った、プレ・ディスカッション・シリーズ 第3回「阪神・淡路大震災から20余年:体験とその継承」(→ 「災害とアート」) でも出ましたが、今回はまた違う印象があります。
それが、もう一つ重要なキーワードと思われる「加害者」でしょう。卯城氏は「ヒロシマは加害者がはっきりしている。しかしフクシマは加害者が特定しづらい」と語ります。当然、東電であり、原発を推進してきた政府なのでしょう。しかし今また政府は原発を推進する立場で、その中で東電の責任は十分果たされているとはいえず、また十分追求されているともいえない状況にあります。小林氏は「これまで原発を容認してきた我々も加害者と言える」と言っています。これまで原発がなければ日本が成り立たなかった時期は確実にあって、そしてそれは自分のそばにないことで容認していたのではなかったか。このように誰か一人を悪者にしてそれ以外の人たちが一致団結する構図ができにくいのです。
これまでと違って、被災者とそうでない人の間にも「分断」があります。「福島の農産物はたとえ放射性物質が検出限界以下であっても危険、食べるな」と主張する人たちがいるのです。一方で福島県以外の産地の農作物に関しては何も問いません。これは福島県の農家の人々を「加害者」とみなしていると言えるでしょう。
また、原発自体に対しての今後の扱いは、危険性と必要性を天秤にかけて議論すれば良さそうなものですが、原発反対派の人たちと、その反対「反・反原発」派の間にも分断があり、その間では、冷静な議論になっていません。「原発推進」派や「原発賛成」派と書かずに「反・反原発」と書いたのは、その人たちの行動原理がもはやイデオロギーになっていると見えるからです。(たとえば、「彼らが反対しているということは、原発は必要だということ。」)
アートの力として、被災者に寄り添う、再び立ち上がる力になるということがあると思いますが、こういう状況に対してアートは何が提言できるのか、私が答えを出せるわけではないので、今後もウォッチしていきたいと思います。
2018/03/11
2018/03/04
哲学とは考えること
哲学って何だろうね。
哲学とはソクラテスとかプラトンなどの昔の哲学者が語ったことを学ぶことだと思っていました。自分が理系なので、じゃあ大学ではどういう研究をやっているんだろうねと思っていたのです。
昨年、森美術館で「現代アートと哲学対話」というイベントが行われました。「現代アート」は「分からない」ものの代名詞、「哲学」も「分からない」ものの代名詞、さぞや分からない禅問答が行われるんだろうなと思い、参加しました。
ラーニング・キャンプ004 「現代アートと哲学対話―新しい学びの可能性」
お話をされた河野哲也氏 (立教大学文学部教授) によると、私が考えていたようなものは「古い哲学」で、1970年代以降「哲学プラクティス」という考え方が起こってきたそうです。子どもや一般の人が参加する哲学。「哲学カフェ」(Wikipedia) という場所が250以上もあるそうです。
何をやるのかというと「哲学対話」。あるテーマについて対話を通して深く考える。相互理解を進め、自分の思考も深める。
「哲学」とは思考の深さのことで、何でも掘り下げると哲学になるということです。
なぜ哲学が必要なのかということに関して、
哲学とはソクラテスとかプラトンなどの昔の哲学者が語ったことを学ぶことだと思っていました。自分が理系なので、じゃあ大学ではどういう研究をやっているんだろうねと思っていたのです。
昨年、森美術館で「現代アートと哲学対話」というイベントが行われました。「現代アート」は「分からない」ものの代名詞、「哲学」も「分からない」ものの代名詞、さぞや分からない禅問答が行われるんだろうなと思い、参加しました。
ラーニング・キャンプ004 「現代アートと哲学対話―新しい学びの可能性」
お話をされた河野哲也氏 (立教大学文学部教授) によると、私が考えていたようなものは「古い哲学」で、1970年代以降「哲学プラクティス」という考え方が起こってきたそうです。子どもや一般の人が参加する哲学。「哲学カフェ」(Wikipedia) という場所が250以上もあるそうです。
何をやるのかというと「哲学対話」。あるテーマについて対話を通して深く考える。相互理解を進め、自分の思考も深める。
「哲学」とは思考の深さのことで、何でも掘り下げると哲学になるということです。
なぜ哲学が必要なのかということに関して、
- 探求には終わりがないこと
- 分野を超えた全体を考えないといけないこと
- 専門知の問い直しと創造
が挙げられていました。
この二番目は、大阪大学の総長鷲田清一氏が2010年入学式の告辞で、複雑な時代、専門分野が細分化した時代に、複雑化した問題を解決するために、異なる分野の専門家がお互い協力して行かなければならない、そのために教養がいる、ということを述べられましたが、それに通じるものと思います (大阪大学サイトに2010年度の告辞はないのですが、2011年のものはあり、やはり同じようなことが述べられています)。
その後、参加者はグループに分かれ、「哲学対話」ミニ体験を行いました。テーマは「なぜ美術館に行くのか」。自分で考えると「自分でアート作品を買えないし置く場所がないから」で終わってしまうのですが、みなさんそれぞれの体験から、場としての重要性、和kざわざ「行く」ということの意味などが語られました。
「哲学」は難しいという概念が変わり、誰でもできるということが分かりました。
1月20日、やはり森美術館で行われた、トークセッション 「プロトタイプとしてのアートについて考える―レアンドロ・エルリッヒ作品を通して」に参加しました。単なるアーティストトーク、対談と思っていたら、ここでも哲学でした。アーティストのレアンドロ・エルリッヒとともに登壇したのは、哲学者のエリー・デューリング パリ第10ナンテール大学准教授。「プロトタイプ論」はデューリング氏の理論なんですね。
レアンドロ・エルリッヒ作品には、創り上げるという側面とパフォーマンスの側面がある。観る、作品に入る、写真を撮る、これも作品の一部である。ここあたりはよく分かりましたが、プロトタイプ論が何か分からないので、レアンドロ・エルリッヒ作品との関連はよく分かりませんでした。アーティストの頭の中に様々な可能性があって、具現化で可能性を切り離し、ひとつを見せているというのがプロトタイプのようです。
プロトタイプ論をインターネットで調べていたら、エリー・デューリング氏を含む鼎談がありました。
10+1 web site 「オブジェクト」はわれわれが思う以上に面白い
やっぱり難しいです。
そんな中、スーパーヒーローと哲学しよう! というオンラインコースがあり、受講してみました。
考えることが大事で、答えはありません。レポートも自分のスーパーヒーローを作って、「そのヒーローならこんな時どうする?」というのを毎回 (全4回) 提出します。
アメコミのスーパーヒーローを題材に様々なことを考えようということで、「スーパーヒーローで哲学しよう! 」と言った方が良かったかな。
最初の問題はスーパーヒーローが正体を明かさないことの倫理です。正体を明かさないこと自体は問題はないかもしれないですが、そのために周囲にいる家族や職場でウソをつく必要もあるでしょう。少なくとも聞かれたことを正直に答えないでしょう。そういう倫理観を問題にします。
右はヒーローマシーンというサイトで作りました。この人は変身や変装をしたりせず、見えない超能力で問題を解決します。
このオンラインコースに関しては一通り終えましたが、哲学的概念が消化しきれていないので、用語を検索しながら見直そうと思います。また別に記事にするかも。
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