元京都大学総長の長尾真先生が5月23日に逝去されました。ご冥福をお祈りします。
国立国会図書館の館長を勤められたり、文化勲章の受章など、長尾先生の業績に関しては、しっかりとまとめられるところがあると思いますので、ここでは個人的な思い出などを綴ろうと思います。
私が長尾研に配属になったのは昭和54年4月、4回生 (4年生のこと) になってからでした。正式名称は「有線通信研究室」だったと思いますが、当時は電気系学科の中で真正面からコンピューターを扱っていたのは、ここだけと言って良いと思います (別に情報工学科はありましたし、電気系学科の中でも研究の一環で取り組んでいるところはありました)。
長尾研は人気が高かったので、抽選になりましたが、私はなんとなく抽選に負けない予感がしていました。予感と言っても、落ちると宇治の原子力発電系研究室になってしまうことだけは避けたいという思いが、「負ける訳にはいかない」、「負けるはずがない」という根拠のない確信を生んだだけかもしれません。
長尾研では、おおきく画像処理と自然言語処理のテーマに分かれていましたが、私は大学受験においては英語も国語も得意だったので、自然言語処理の方を選びました。得意と書きましたが、潜在的に好きだったのだと思います。活用の種類があって、活用系があって、それぞれに後に繋がる語が決まってくるとか、文は主語と動詞と目的語、補語からなっていて、動詞も動名詞や不定詞や関係詞節で名詞の働きをすることができるので主語や目的語になりうる、というような言語を構造的に扱う、ルールベースの考え方がしっくりきていました。
その頃、長尾研を中心に言語学関連の若手の研究者が月に1度のペースで集まって発表を行う「対話研究会」という集まりがありました。田窪行則先生 (国立国語研究所所長)、山梨正明先生 (京都大学名誉教授) 等がいらして、当時はまだ学生だった三宮真智子先生も話をされました。他の分野の話は、当時はほとんど理解できていなかったと思いますが、それでも面白く、毎回楽しみにしていました。理解できていないながらも、ambiguityとvaguenessの違いとか山梨先生の比喩の話など、今の私の知識や興味範囲を形作るパーツになっています。当時は「学際」という言葉も知りませんでしたが、長尾先生はその重要性を早くから気づいておられ、それを実際に行う環境を用意されたのだと思います。
この会は私が卒業後も続いていて、形式は変わっていましたが、1988年にATR自動翻訳研究所に出向したときに参加したことがあります。
それから、情報工学科の西田豊明先生のところとも交流があり、モンタギュー文法の連続レクチャーに参加させてもらったりしました。
大学、大学院時代はこういう環境にあったのにもかかわらず、就職の段階においては自然言語処理を仕事で続けていこうとは考えていませんでした。ビジネスにおいて機械翻訳というアプリケーションはあったのですが、当時は精度が100%でないと結局人が全部見ないといけなのだから使えないという考え方に対して有効な反論がなく、先が見えない感じがしていたのです。
在学中に当時ゼロックスパロアルト研究所 (PARC) の研究者だった鈴木則久氏のお話を聞く機会があり、そこで話されたAltoとネットワーク環境にあこがれて、当時の富士ゼロックス (現富士フイルムビジネスイノベーション) を就職先として選びました。当時の富士ゼロックスでは、自然言語処理をやってないことは知っていましたが (後で考えるとかな漢字変換はあった)、それよりもこの新しい計算機環境に魅力を感じたのです。
入社後は希望通り、システム系の技術部門に配属になりました。自然言語処理は離れたつもりでしたが、そこで自然言語処理をテーマにしようという話が出てきました。
当時長尾研を中心に大手電機メーカー各社が参加するMuSystemという機械翻訳のプロジェクトがあり、富士ゼロックスも参加することになりました。またその後、NTTを中心に多くの企業から出向者を集め、ATR国際電気通信基礎技術研究所という研究所が設立されました。先に触れたATR自動翻訳電話研究所はその一つで、私は遅れて1988年から3年間出向しました。
1991年に出向から帰った後も自然言語処理の研究を続けることになり、推敲支援や要約などをテーマとしていました。その後研究で取り組んだ検索と要約を商品化することになり、開発部に移りました。検索と要約の商品化後はうまく次に繋げられず、私はいったん自然言語処理から離れることになります。
仕事上では自然言語処理から離れたものの、心は離れることができず、休みをとって自然言語処理関連の学会やシンポジウムに出たりしていました。特に長尾先生が招待講演をされる時にはできるだけ参加しました。
2008/07/23 音声・自然言語に関する研究開発プロジェクト MASTARプロジェクト キックオフシンポジウム (PDF) 基調講演「これからの言語処理の課題」
2010/02/24 第1回産業日本語研究会・シンポジウム 基調講演「産業日本語を育てよう」
-- 「産業日本語」は、機械翻訳の翻訳対象として翻訳に優しい制限言語。曖昧さが少ない書き方なので、日本語が十分習得できていない外国人にも適している。
2010/03/18 第9回京都大学学術情報メディアセンターシンポジウム 「カルチュラル・コンピューティング」基調講演「文化とコンピュータ」(動画)
-- ここでは書道に触れられている。先生はもともと字に関してはお世辞にもお上手とは言えなかったのだが、その後習字を学んでいると噂で伺った。下の写真の一番奥は先生の書の作品集。
-- この中で、「知」、「情」、「意」の関係にも触れられている。これまでの「知」の時代から21世紀は「情」の時代になるという位置づけ。この時は既に21世紀に入っているが、この話は1993年長尾研究室20周年記念の講演で既に述べられていた。
-- 知識が我々を豊かにする。Through knowledge, we prosper.
-- この時は京都吉兆の徳岡氏のお話が面白かった。料理と料理の間のお酒は口の中の味をリセットする。長尾先生はお酒を召し上がらないので、リセットのためにご飯を求められた。途中途中にご飯を食べるとそれでお腹がいっぱいになるので最後まで楽しんでいただけず、困った。
2011/02/05 知の構造化センター シンポジウム 基調講演
講演アーカイブ
Toggetter 知の構造化センター シンポジウム
2011/03/02 第2回産業日本語研究会・シンポジウム 基調講演「知識インフラと日本語」
-- 日本は情報に疎い。情報を分析するチームを各国持っているが、日本は弱い。「知識インフラ」はこういう問題意識から出ており、課題に対してこれまでの研究を知ることができるものを目指している。構造としては、知識データベースをつなぐもの (ゆるいつながり)。
2011/05/24 講演会「あらゆる知識へのユニバーサルアクセス」 @ 国立国会図書館
-- 長尾先生の講演ではなく、国立国会図書館と提携することになったインターネット・アーカイブのブリュースター・ケール氏の講演。→ 国立国会図書館月報 608(2011年11月)号
2011/11/23 情報処理学会自然言語処理研究会 招待公演「電子図書館と自然言語処理」
-- 午後に嵐山で喜寿お祝い会が行われる日の午前中に行われました。
「情報学は哲学の最前線」 (2019年) 京都大学学術情報リポジトリ紅 PDF
NTT-DATA - Data Insight 2018.9.6 事例&対談 長尾真(情報工学者)新井紀子(数学者)
研究の背後に、哲学、数学の深い知識とそれを現実の課題と結びつける力があることが分かる。第3次AIブームの先に残る課題「意味」への取り組みにますます必要になるものではないか。 / “長尾真(情報工学者)新井紀子(数学者)|INFO…” — R. Yoshihiro Ueda (@ryokan) September 12, 2018
2020/04/24 4月からの大学等遠隔授業に関する取組状況共有サイバーシンポジウム (第5回)長尾 真 元京都大学総長「危機に直面して」動画 / テキスト(PDF)
-- 先生のお父様の話「長い人生には必ず二度三度か予想もしない厳しい状況に晒されるのだ。このときにどう振る舞うかがその人の価値を決めるのだ」を引用し、こういう時はものごとの本質についてよく考える貴重なチャンスである、古典を読んだり、音楽で心を豊かにしよう。
長くなってしまいました。表題の「学び続ける姿勢」についてまとめておきたいと思います。最後の「危機に直面して」でもわかりますが、どんな時にも学ぶことを重視されていると思います。先生が我々に見せてくれた姿は、情報科学以外では、書道であり、哲学であり、文化です。国立国会図書館の館長という職は、私は最初名誉職と思ったのですが、図書館のデジタル化に関して著作権法の改正に政治家を動かしたり、インターネット・アーカイブからWebのアーカイブを購入したり (ただで集めたものになんで金を払うんだという抵抗がきっとあったと思います)、常に社会をよくしていこうとする姿勢もなかなか真似ができないことと思います。
いや、確かに仕事の大きさや、影響力は真似はできないと思いますが、学び続ける姿勢、チャレンジする姿勢は、我々でも学べるのではないか。今後も折に触れ、先生のことを思い出すことだろうと思います。先生だったらこの場合どのように考えられるだろうか、どのような決断を下されるだろうか、そうやって思い出していくことで、亡くなった後も先生が我々を導いてくれるのだろうと思うのです。ここで「我々」と書きました。私だけでなく、多くの人たちがそんな思いを抱いていると思います。