昔NHKで夏目漱石「坊っちゃん」の連続ドラマ化があった。柴俊夫主演。原作に忠実というよりも、「坊っちゃん」の舞台設定を借りて「天下御免」、「天下堂々」の世界を明治に再現したような感じのもの。
その中のエピソードとして、教頭赤シャツが職員会議で「授業に銃剣行進訓練を取り入れよう」という提案をするのがあった。その時は狸校長の反対で否決されるのだが、その後校長が出張時の職員会議で再提案し通ってしまう。他の先生たちは、これからは赤シャツの時代だということを感じ迎合したのだ。再提案されて可決したことを後で知った狸校長の苦々しい表情、そして実際に校庭で行進する無表情の若者たち、その重苦しさが忘れられない。
日清戦争から日露戦争に向かう時代の雰囲気を、TV放映時の日本の雰囲気に重ね合わせ、警鐘を鳴らしているのだと思った。NHKがまだ政府の影響下にない時代。
その時代の雰囲気は、治安維持法や隣組につながり、さらにもの言えぬ時代になっていく。TV放映時はまだそのような空気は私には感じられなかったが、だんだんそれが強くなっていくことを感じる。NHK会長に送り込まれた籾井氏、放送法を盾にとったメディアへの圧力、それに抵抗しないメディア側、記者会見で聞かれる側から提供される質問予定に沿って質問する記者クラブの記者たち ...
時代の雰囲気を感じて萎縮しているのはメディアだけではない。自治体や公共施設なども、会場を貸す際、美術展の展示物などで「政治利用」を避ける傾向がある。「市民」からの「ご意見」を避けたいからだ。
一般の人から「政治的」という抗議は、「俺の政治的スタンスと反する」の意だ。ただそのような抗議をする人は、現政府の (本音の) ポリシーと一致している場合に限られる。「反戦」、「護憲」は「政治的」と言われるが、「国を愛そう」だったら彼らは問題にしない。もし「愛国」を政治的と指摘したら「愛国は当然のことだ」というだろう (BuzzFeed 2016/05/18 「ジョン・レノンのポスターに「政治的」とクレーム 店はどう対応すべきか」)。
「(本音の)」と括弧をつけたのは、政府が「男女共同参画」といっても、本音では「家庭を守ること、子育ては女性の仕事」と考えていると理解していて、上野千鶴子さん講演への抗議は伝統的な女性の規範に反すると考えてのことだろう (後に講演は行われることになった)。
このような圧力が強くなって、それに屈していると、「最初から言わない」という選択肢をとる場合が増えてくるだろう。残るのは同じ方向を向いた声だけだ。マスコミも市民の声に迎合した記事を書くようになる、その結果は一直線に崖に向かって進み誰も止められない。
... ということを我々は歴史から学んだのではなかったか。
今ならまだ間に合う。そう思っている。
2016/05/21
2016/05/08
アートと複製
横浜美術館で「複製」をテーマにした2つの展覧会が続けて開催された。
荒木悠展 複製神殿
2016年2月26日(金)~4月3日(日)
アートギャラリー1、Café小倉山
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20160226-461.html
富士ゼロックス版画コレクション×横浜美術館 複製技術と美術家たち -ピカソからウォーホルまで
2016年4月23日(土)~6月5日(日)
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20160423-463.html
それぞれ以下のイベントに参加した。
荒木悠 新作講評会(荒木悠展 複製神殿)
日時: 2016年3月21日(月・祝)16:00 - 17:00
ゲスト: 藤幡正樹(メディア・アーティスト/元東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻教授)
トークセッション「富士ゼロックス版画コレクション その魅力と使命」(複製技術と美術家たち展)
日時: 2016年4月23日(土)15:00 - 16:30
出演: 横田 茂(横田茂ギャラリー代表) 小林 弘長(富士ゼロックス株式会社総務部) 中村 尚明(横浜美術館学芸員)
まず荒木悠展について。荒木悠の今回展のテーマは、「authenticity(真正であること)」。対立概念として「ニセモノ」があり、タイトル作品の「複製神殿」は荒木が住んでいたアメリカ南部ナッシュビルにあるパルテノン宮殿の原寸大レプリカがモチーフになっている。この建物は、1897年のテネシー州制100周年記念万国博覧会のために建てられ、現在は美術館として使用されている。荒木は当初これとそのオリジナルであるギリシャのアテネのパルテノン宮殿を対比させた作品を作る目論見であったのだが、アテネで市当局の許可が下りず (実際に行って担当者に交渉しないといけないので、アテナイまま行ったという … すみません)。結局アテネで入手した「イギリスにもレプリカがあるよ」という情報をもとにそのままイギリスへ行き、エジンバラにあるパルテノン宮殿のレプリカ「ナショナルモニュメント」を組み合わせて作品を作ることになる。
荒木悠新作講評会では、このような背景の他に、「レプリカ」とは何か、「レプリカ」と「クローン」の違いの話が興味深かった。
「クローン」が素材まで一致した複製であるのに対して、「レプリカ」は設計図などをもとに製作したもの。石などをギリシャから運んでくるわけではなく、ローカルで採れる材料を使うため、クローンとはなり得ない。ただ、ナッシュビルのパルテノン宮殿は、「レプリカ」とも言えない。現在ギリシャのパルテノン宮殿で失われている部分も学術考証を加えて再現しているのだ。そういう意味ではエジンバラのパルテノン宮殿もレプリカではない。予算不足と市民の支持の不足で未完成のまま放置されている (Wikipeida: National Monument of Scotland)。
同じ設計図でも同じもの「クローン」が得られないということから、ヨコハマトリエンナーレ2014に関する天野太郎氏のトーク「どついたろか現代アート」の中で、Temporary Foundationについてとりあげている。[2014/09/20 Yoko-Treats! Vol. 8]
Temporary Foundationは、京都市美術館で1991年まで行われていたアンデパンダン展の林剛と中塚裕子のユニットの作品を、残された資料 (アーカイブ) から再現を試みるものである。資料からのみの再現であるため、そのためクリエーションの要素が入ることになる。これを天野氏は子どもの夏休みの宿題に喩える。図書館で同じ資料を調べて書いても、同じものはできないという訳だ。
ヨコハマトリエンナーレ2014出展作家のサイモン・スターリングの作品「鷹の井戸」も、同様に残った資料から再現するものであった。
一方、やはりヨコハマトリエンナーレ2014出展作家の毛利悠子は、制作・設置プロセスを徹底して記録に残すことで、正確に再現できるようにすることを目指している。
美術作品を残すということ 計測する作家・毛利悠子インタビュー
ただその主眼は、正確に再現できるようにすることを通じて、「即興的・感覚的な制作活動のなかに潜んでいる法則を明らかにする」ことのようだ。
これらは複製において望むか望まないかにかかわらずオリジナルの (= 複製を製作した人独自の) 要素が入ってくる例であるが、機械による複製であるゼログラフィー (複写機) ではオリジナルの要素が入らず、毎回同じものができる。しかし画材は複写機の場合トナー (ドライインク) になるため、クローンではあり得ず、レプリカになる。一方コピーからのコピーは、画像劣化は多少あるものの、基本的にはクローンである。
コピーがいくらでもできるとなると芸術の価値はどうなっちゃうのという疑問が湧いてくるが、それが次の複製技術と美術家たち展のサブテーマとなっている「アウラの衰退」である。
「アウラ」とは、一般に言えば「オーラ」のことかと思ったが実際にそのようだ。
はてなキーワード 「アウラとは」
トークセッション「富士ゼロックス版画コレクション その魅力と使命」の中村氏による説明では、アウラとは、ベンヤミンによって定義された言葉で、「一点のみの美術作品に備わる尊厳」を指す。作品に押印される手の痕跡が物語る歴史の重みとも言える。コピーは別の物質で置き換わるためアウラは継承されないという。相対的にオリジナルの価値が増す。
写真についても同様にいくらでもコピーが作れるのでそのプリント一枚一枚にはアウラは継承されないという。しかし一方で、ベンヤミンは「初期の (人物) 写真にはアウラがある」と言っているそうだ。その理由は、初期の写真では撮影するのに長い時間同じ姿勢を保つ必要があり、作成に時間がかかったものであるためということだ。
もうひとつ違和感があったのが、ウォーホルがコマーシャリズムのなかで大量に溢れるイメージのアウラを消し去るということであった。ロゴやスープのパッケージなど、企業が出すイメージは完全にコントロールされ、そのバリエーションを許さない。そのことによってそのイメージはアウラを獲得するということだった。それをウォーホルが色をフラットにしたり変えたりして複製を作ることにより、その統一性という価値を壊してしまった。これはイメージのありがたみが毀損されたということができるだろう。
そう、結局「アウラ」とは、俗っぽく言えば「ありがたみ」なのかなと思う。作品集で見た名作も改めて美術館でみるとありがたい。版画も本来はいくらでも作れるが、枚数を制限してありがたみを維持する。日本のメーカーがシーズンごとに新製品を出していたのに対して、アップルのiPhoneは1年ごとの新製品で (作り込みに時間をかけるだけでなく) 消費者の渇望を引き出しているのではないかと思う。オリンピックのエンブレムも、大量にある素人の作品の中でプロによる作品が選ばれたが、その背景にデザインをつくるためにかかった時間、努力が作品から見えてくるということだろう。
荒木悠展 複製神殿
2016年2月26日(金)~4月3日(日)
アートギャラリー1、Café小倉山
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20160226-461.html
富士ゼロックス版画コレクション×横浜美術館 複製技術と美術家たち -ピカソからウォーホルまで
2016年4月23日(土)~6月5日(日)
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20160423-463.html
それぞれ以下のイベントに参加した。
荒木悠 新作講評会(荒木悠展 複製神殿)
日時: 2016年3月21日(月・祝)16:00 - 17:00
ゲスト: 藤幡正樹(メディア・アーティスト/元東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻教授)
トークセッション「富士ゼロックス版画コレクション その魅力と使命」(複製技術と美術家たち展)
日時: 2016年4月23日(土)15:00 - 16:30
出演: 横田 茂(横田茂ギャラリー代表) 小林 弘長(富士ゼロックス株式会社総務部) 中村 尚明(横浜美術館学芸員)
まず荒木悠展について。荒木悠の今回展のテーマは、「authenticity(真正であること)」。対立概念として「ニセモノ」があり、タイトル作品の「複製神殿」は荒木が住んでいたアメリカ南部ナッシュビルにあるパルテノン宮殿の原寸大レプリカがモチーフになっている。この建物は、1897年のテネシー州制100周年記念万国博覧会のために建てられ、現在は美術館として使用されている。荒木は当初これとそのオリジナルであるギリシャのアテネのパルテノン宮殿を対比させた作品を作る目論見であったのだが、アテネで市当局の許可が下りず (実際に行って担当者に交渉しないといけないので、アテナイまま行ったという … すみません)。結局アテネで入手した「イギリスにもレプリカがあるよ」という情報をもとにそのままイギリスへ行き、エジンバラにあるパルテノン宮殿のレプリカ「ナショナルモニュメント」を組み合わせて作品を作ることになる。
荒木悠新作講評会では、このような背景の他に、「レプリカ」とは何か、「レプリカ」と「クローン」の違いの話が興味深かった。
「クローン」が素材まで一致した複製であるのに対して、「レプリカ」は設計図などをもとに製作したもの。石などをギリシャから運んでくるわけではなく、ローカルで採れる材料を使うため、クローンとはなり得ない。ただ、ナッシュビルのパルテノン宮殿は、「レプリカ」とも言えない。現在ギリシャのパルテノン宮殿で失われている部分も学術考証を加えて再現しているのだ。そういう意味ではエジンバラのパルテノン宮殿もレプリカではない。予算不足と市民の支持の不足で未完成のまま放置されている (Wikipeida: National Monument of Scotland)。
同じ設計図でも同じもの「クローン」が得られないということから、ヨコハマトリエンナーレ2014に関する天野太郎氏のトーク「どついたろか現代アート」の中で、Temporary Foundationについてとりあげている。[2014/09/20 Yoko-Treats! Vol. 8]
Temporary Foundationは、京都市美術館で1991年まで行われていたアンデパンダン展の林剛と中塚裕子のユニットの作品を、残された資料 (アーカイブ) から再現を試みるものである。資料からのみの再現であるため、そのためクリエーションの要素が入ることになる。これを天野氏は子どもの夏休みの宿題に喩える。図書館で同じ資料を調べて書いても、同じものはできないという訳だ。
ヨコハマトリエンナーレ2014出展作家のサイモン・スターリングの作品「鷹の井戸」も、同様に残った資料から再現するものであった。
一方、やはりヨコハマトリエンナーレ2014出展作家の毛利悠子は、制作・設置プロセスを徹底して記録に残すことで、正確に再現できるようにすることを目指している。
美術作品を残すということ 計測する作家・毛利悠子インタビュー
ただその主眼は、正確に再現できるようにすることを通じて、「即興的・感覚的な制作活動のなかに潜んでいる法則を明らかにする」ことのようだ。
これらは複製において望むか望まないかにかかわらずオリジナルの (= 複製を製作した人独自の) 要素が入ってくる例であるが、機械による複製であるゼログラフィー (複写機) ではオリジナルの要素が入らず、毎回同じものができる。しかし画材は複写機の場合トナー (ドライインク) になるため、クローンではあり得ず、レプリカになる。一方コピーからのコピーは、画像劣化は多少あるものの、基本的にはクローンである。
コピーがいくらでもできるとなると芸術の価値はどうなっちゃうのという疑問が湧いてくるが、それが次の複製技術と美術家たち展のサブテーマとなっている「アウラの衰退」である。
「アウラ」とは、一般に言えば「オーラ」のことかと思ったが実際にそのようだ。
はてなキーワード 「アウラとは」
トークセッション「富士ゼロックス版画コレクション その魅力と使命」の中村氏による説明では、アウラとは、ベンヤミンによって定義された言葉で、「一点のみの美術作品に備わる尊厳」を指す。作品に押印される手の痕跡が物語る歴史の重みとも言える。コピーは別の物質で置き換わるためアウラは継承されないという。相対的にオリジナルの価値が増す。
写真についても同様にいくらでもコピーが作れるのでそのプリント一枚一枚にはアウラは継承されないという。しかし一方で、ベンヤミンは「初期の (人物) 写真にはアウラがある」と言っているそうだ。その理由は、初期の写真では撮影するのに長い時間同じ姿勢を保つ必要があり、作成に時間がかかったものであるためということだ。
もうひとつ違和感があったのが、ウォーホルがコマーシャリズムのなかで大量に溢れるイメージのアウラを消し去るということであった。ロゴやスープのパッケージなど、企業が出すイメージは完全にコントロールされ、そのバリエーションを許さない。そのことによってそのイメージはアウラを獲得するということだった。それをウォーホルが色をフラットにしたり変えたりして複製を作ることにより、その統一性という価値を壊してしまった。これはイメージのありがたみが毀損されたということができるだろう。
そう、結局「アウラ」とは、俗っぽく言えば「ありがたみ」なのかなと思う。作品集で見た名作も改めて美術館でみるとありがたい。版画も本来はいくらでも作れるが、枚数を制限してありがたみを維持する。日本のメーカーがシーズンごとに新製品を出していたのに対して、アップルのiPhoneは1年ごとの新製品で (作り込みに時間をかけるだけでなく) 消費者の渇望を引き出しているのではないかと思う。オリンピックのエンブレムも、大量にある素人の作品の中でプロによる作品が選ばれたが、その背景にデザインをつくるためにかかった時間、努力が作品から見えてくるということだろう。
まだまだ「複製」に関しては考えることがありそうだ。
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