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2005/01/29

やっぱり「生きる力」

こんばんは。銭っ子です (ウソ)。

さて、はりーさんの「親の成長(しつこいけど)」のコメントで、私は、「人それぞれって個人レベルに落したくないという思いもあって、また考えをまとめたいと思います。ちょっと待ってね。」と書きました。相当待たせました。まだ自分で満足いく答えを出せていないですが、それを待っていてはいつになるか分からないので、少しずつ出して行こうと思います。

再スタートの地点は、その前の「成長欲求その4」のはりーさんの「コミットメント」という言葉と私がコメントで書いた「意志」あたりになります。「意志」、「決意」、「コミットメント」、「自分自身との契約」。これが、成長欲求を満足させる原動力になる。それまで、「経験」、「力」を養ってきていなくても、やるしかない、自分が決めたことなら。

ということに関しては同意する。

同意している、しかし、やっぱり意志の力を持続させられるのは並大抵のことではないと思うのだ。誰もがノーベル賞を取れる訳ではない、イチローになれる訳でもない。壁にぶつかったときに、どこかで「自分の限界はここなのかも」と思い、「これでいいんじゃないの。私にはブールのある邸宅もあるし、そこには美女もいる」と思うときがあるだろう。でもそこには自分へのごまかしがある。低レベルの力を身に付けていなければはやくその限界に達してしまうのではないか、と思うのだ。ここで注意していただきたいのは、低いレベルで限界が来る、といっている訳ではなく、早く限界が来るということを言っています。はやいうちに自分で成長を止めてしまうのではないか、そしてその後満足できない人生を送るのだ (一度挫折したら二度と成長できない訳ではない。ここはわざと極端なことを言っています)。

はりーさんとの考え方の違い (別に同じでなければならないと思っている訳ではありません) のひとつに、この意志の力への信頼の大きさがあると思う。

成長の意志があってそれから力をつけていくのでも、生きる力をつけたら成長の意欲が生まれるのではない。少しずつ力をつけ、自信を得て、次の目標が出てくるし見えてくる。逆にいうと大きな目標を持っていても、まずは小さな目標を目指すようにして、小さな満足を積み重ねて行く、そういうスパイラルアップ (正しい使い方じゃないかも) が必要と思うのだ。

そう進めていっても、誰でもイチローになれるわけではないというのは変わらない。どこかで限界を感じるとしたら、最初に設定した目標にどうやっても自分が達しないことが分かったら何に満足して生きて行けば良いのか。それは、「努力を止めない自分」、「成長を続ける自分」にだ。そしてそれははりーさんが指摘されるようにプロセスであり、目標に達していない段階でも常に得ることのできる満足なのだ。まあこれは「成長」を価値観においた場合の話であって、それ以外の価値観も当然あるのだが。

はりーさんとの認識の違いがもうひとつあるかも、と思っています。ちゃんと書いていませんでしたし、大前研一を引用したので誤解を招いているかもしれないのですが、私が「生きる力」というときに、それはすごく低レベルのことを想定しています。低レベルのことを含んでいるといったほうがいいかな。自分で切符を買って電車に乗って行きたいところへ行く、安いところを探して買い物をする、だまされない、流されない、正しいことを正しいと主張する、生活に自分なりの楽しみを見いだす、挫折から立ち直る、...

こういう力は金持ちかどうかにはあまり関係がないのは確かだろう。そういう意味で「ハングリー精神」に言及したのは適切でなかった。だが、モノだけでなく、だまされないように挫折しないようにするお膳立てなど、これらを全て与えていては「生きる力」は育たないだろう。

今日はここまで。これじゃ社会レベルの話ができるのはいつになるか分からないですね。

2005/01/08

欠乏充足欲求と成長欲求

おはようございます。人はパンの耳だけで生きられない、って何を言ってるのだ俺は。

はりーさんが、「成長欲求その3」で「これでも違和感は残るなぁ。」と述べている。たぶん微妙なところで定義が違うのではないだろうか。または定義は同じだがそこにはいるインスタンスの想定が違うのかもしれない。

まず、「欠乏充足欲求」は他人が与えることもできるもの、「成長欲求」は他人が与えることができないものという区別(定義ではない)は同意していただけると思う。
また、ハリーさんのいう
満腹になればそれ以上は食べられない。美味しい物や珍しい物を食べたいとかいう、さらなる欠乏は発生するだろうけど、基本的に欠乏は埋めれば解決、満足できる。
これに対して、成長はプロセスであり、その欲求も満足も客観的な尺度など無い。自分が実現できていると感じるかどうか、でしかないのだ。
「状態」と「プロセス」の差異にも同意できる。

しかし、ここで成長欲求で例に出されているものがスポーツや芸術家などなのだが、これらは個人レベルの努力で実現 (プロセスなので「実現」という言葉はおかしいが) できるものに限定されているように思う。

例えば、バンドをやりたい、コンサートをやりたいといったらどうだろう。また、こんな商品を世の中に送り出してやりたい、ヒットさせたいという欲求はどうだろう。人との関わりの中で自分の意志を伝えたり、他人が求めているものを知ったり、社会の仕組みを理解していたり、欠乏充足欲求を自分で満たそうと思った場合に必要だったスキルはやっぱり必要になるだろう。何でも与えられていた時には必要でなかった工夫も想像力も必要だ。もちろんハリーさんのいうように違う力は求められるが、欠乏充足欲求を満たすために必要だった基本的な「生きる力」はやはり必要と思うので「前提」と書いた。

もしかしたらこの「欠乏充足欲求を満たすために必要な力」というもののレベルがハリーさんと私で違うのかもしれない。それは「欠乏充足欲求」のレベルが違うのかもしれない。というのは、
限られたパイを奪い合うのと、自分が成長したり、より良き社会を創り上げていくのとでは、必要となる力は違うんじゃないかなぁ?
とあるのだが、私が想定する「欠乏充足欲求」は、今の日本では、不満さえいわなければ「限られたパイを奪い合う」ことなしに満たすことができると思っているからだ (前回大前研一を引用したのはこの考え方にはあっていないので不適切だった)。確かにこの「不満」は、「より良い生活をしたい」という意味では「欠乏充足欲求」なのかもしれないが、「私にはもっと価値のある仕事ができるはず」という意味では「成長欲求」と思えるのだ。どちらかが正しいといってる訳ではなく、捉え方はさまざまだろうといっています。
...
話が結局「欠乏充足欲求」と「成長欲求」に区別がつけられないという方向になりつつある。最初の時点で、私が言いたかったことをハリーさんが出された「成長欲求」に絡めた話に持って行こうとしたのがまずかったのか。

これらをふまえてもう一度言いたかったことを修正してみる。前回の修正版
低レベルの欲求を自分の力で満たしていく上で身に付けた力が、上位レベルの欲求を実現する前提になっているのかもしれない。
を、これまでの言葉もとりいれて
他人が与えることで欲求を自分の力で満たしていく力を身に付けていないと、他人が満たしてやれない欲求を持った際に途方にくれる。他人が満たしてやれない欲求を自分で満たそうと思わなくなり、さらには、欲求をもたなくなるようにもみえる。
と修正してみた。原型とどめていませんね。

どうかな。乱暴な論理展開は含まれていると思うが、私の中では整理されてきたと思う。つきあっていただいたハリーさんには感謝しています。

最後にちょっと補足。もともと子どもに何でも与え過ぎるのはどうかという話だったが、子どものときに与え過ぎると一生ダメと思っている訳ではありません。大人になってもまれてから生きる力の不足に気付いても取り返しはつくと思っています。逆に大人になってからも生きる力が衰えることがあるだろうと思います。

2005/01/07

成長欲求を叶える力

こんばんは。海賊王に俺はなる、ルフィです(ウソ)。

私の生煮えの考えにトラックバック、ご意見ありがとうございました。

まず、マズローの言葉を使っていますが、これに関しては、トラックバックしてくれたハリーさんの「成長欲求」へのコメントでsabretoothjapanさんが、解説およびそれに対する批判も含めて解説して下さっています。ごめんなさい、ちゃんと理解してもいないまま使っていました。私の捉え方はすごく低レベルで、「衣食足って礼節を知る」、ちがった、「人はパンのみにて生きるにあらず」くらいの意味でした。以降ではマズローの「自己実現」などという言葉は使わず、ハリーさんが使われている「成長欲求」を使うことにします。あるいは「夢」といっても良いかもしれません。

私が書いた記事
もしかしたら、低レベルの欲求(1. 生理的欲求と2. 安全の欲求)は自分の力で満たしていくことが、上位レベルの欲求をいだく前提になっているのかもしれない、とも思う。
の部分に対して、ハリーさんは、
要するに如何に明日を創っていくか、なのだろうから、低次欲求を自分で満たすかどうかとは直接関係しないと思うのだがねぇ。
と書かれています。

うん、分かります。ではこう変えてはどうでしょうか。
低レベルの欲求を自分の力で満たしていく上で身に付けた力が、上位レベルの欲求を実現する前提になっているのかもしれない。
変え過ぎですね。

私がいいたかったのは、この「力」なのではないかと思う(まだちゃんと整理できていないので他人事みたいな書き方になっています、腹が据わってなくて申し訳ありません)。生きる上で工夫したり、想像力を発揮したりする必要がなかったら、そういう力を身に付けることができず、いざ自分の夢をもったときにどう実現させれば良いのか途方に暮れるのではないか。そして一部の人は最初の時点から挫折するのではないか。そしてそれは「成長欲求」を持っていない状態と区別が付かないのではないか、と思うのだ。

ちょうどPRESIDENT 2005.1.17号で大前研一が
これから日本は大混乱に陥る。一寸先は闇のジャングルの中で生きてることのできるできる人間を育てないといけない。その訓練を世間知らずの教師に任せていたら、生贄になるための人間を育てるようなもので、世の中に出たら即死すること間違いなしだ。... 会社の厳しさ、マーケットの激しさといった「ジャングルのルール」を教えられるのは父親だけなのだ。
と書いている (原文には母親ではなく父親だけと書いてあるのだがそこはここの論旨から外れるので引用しない)。要は生きる力を身につけさせろということだろう。ここで引用していない分も含めると、低レベルの生きる力だけでなく夢を実現させる力も含んでいることが分かる。

まだ固まった意見とはいいがたいですが、少なくとも「生きる力」を具えることは重要と思う、ということだけはいっておいて筆を置きたいと思います。

2004/08/14

ケータイ、TVが起こす新しいタイプの言葉遅れ

毎日新聞に 新教育の森:アドレス探し/8 対話奪う「TV子守」という記事がありました。

3歳になっても言葉を話さない子供が増えているとのこと。表情もない。川崎医科大(岡山県)の片岡直樹教授(小児科)によると、人間の心をはぐくむ2歳までの時期に、テレビやビデオで一方的に情報を浴びせると、自分と他人との関係を理解できず、コミュニケーション能力や五感が育たない、とのこと。子供がテレビ、ビデオを見ている間は泣き止んでいるので、家事をするため等で、そのまま見せ続けることが原因になる。

先日買ってきたPRESIDENT 2004.8.30号にも同様の記載があって、感想を書こうと思っていたところでした (こちらも片岡教授への取材なのでもとは同じでした)。
ここでは、ケータイも原因のひとつにあげられています。授乳しながらメールのやりとりをするので、赤ちゃんの目はみていない。赤ちゃんは言葉はしゃべれなくとも何かを訴えかけているが、それに反応をしてあげられない。また、テレビゲームもインタラクションは限定されており、多様な反応が得られない。

私自身も、子供が泣き出したらこの一本というビデオを用意していた。仕事のことを考えながら相手をしていたりするので訴えかけられても反応できなかったかもしれないし、そもそも訴えかけられているといっても気が付いていなかったと思う。また、ゲームではないですがそれに近いインタラクティブ絵本を与えることが教育的効果があるとも思っていました。言葉がしゃべれなくなることはなかったのは幸いかもしれません (補足: 以上は父親の私の話なので、育児の大部分を占めていた母親はふつうにちゃんとコミュニケーションとっていて問題の発生する可能性はなかったといえますが)。また、子供の成長の間に色々問題が出るものだとは思いますが、その一因だったかもしれないとも思います。

一方で育児ノイローゼということもあり、母親にも携帯メールでストレス発散も必要と思いますし、育児を手伝ってくれる人のいない核家族化した現状では、難しいところだと思います。