はりーさんが、「成長欲求その3」で「これでも違和感は残るなぁ。」と述べている。たぶん微妙なところで定義が違うのではないだろうか。または定義は同じだがそこにはいるインスタンスの想定が違うのかもしれない。
まず、「欠乏充足欲求」は他人が与えることもできるもの、「成長欲求」は他人が与えることができないものという区別(定義ではない)は同意していただけると思う。
また、ハリーさんのいう
満腹になればそれ以上は食べられない。美味しい物や珍しい物を食べたいとかいう、さらなる欠乏は発生するだろうけど、基本的に欠乏は埋めれば解決、満足できる。「状態」と「プロセス」の差異にも同意できる。
これに対して、成長はプロセスであり、その欲求も満足も客観的な尺度など無い。自分が実現できていると感じるかどうか、でしかないのだ。
しかし、ここで成長欲求で例に出されているものがスポーツや芸術家などなのだが、これらは個人レベルの努力で実現 (プロセスなので「実現」という言葉はおかしいが) できるものに限定されているように思う。
例えば、バンドをやりたい、コンサートをやりたいといったらどうだろう。また、こんな商品を世の中に送り出してやりたい、ヒットさせたいという欲求はどうだろう。人との関わりの中で自分の意志を伝えたり、他人が求めているものを知ったり、社会の仕組みを理解していたり、欠乏充足欲求を自分で満たそうと思った場合に必要だったスキルはやっぱり必要になるだろう。何でも与えられていた時には必要でなかった工夫も想像力も必要だ。もちろんハリーさんのいうように違う力は求められるが、欠乏充足欲求を満たすために必要だった基本的な「生きる力」はやはり必要と思うので「前提」と書いた。
もしかしたらこの「欠乏充足欲求を満たすために必要な力」というもののレベルがハリーさんと私で違うのかもしれない。それは「欠乏充足欲求」のレベルが違うのかもしれない。というのは、
限られたパイを奪い合うのと、自分が成長したり、より良き社会を創り上げていくのとでは、必要となる力は違うんじゃないかなぁ?とあるのだが、私が想定する「欠乏充足欲求」は、今の日本では、不満さえいわなければ「限られたパイを奪い合う」ことなしに満たすことができると思っているからだ (前回大前研一を引用したのはこの考え方にはあっていないので不適切だった)。確かにこの「不満」は、「より良い生活をしたい」という意味では「欠乏充足欲求」なのかもしれないが、「私にはもっと価値のある仕事ができるはず」という意味では「成長欲求」と思えるのだ。どちらかが正しいといってる訳ではなく、捉え方はさまざまだろうといっています。
...
話が結局「欠乏充足欲求」と「成長欲求」に区別がつけられないという方向になりつつある。最初の時点で、私が言いたかったことをハリーさんが出された「成長欲求」に絡めた話に持って行こうとしたのがまずかったのか。
これらをふまえてもう一度言いたかったことを修正してみる。前回の修正版
低レベルの欲求を自分の力で満たしていく上で身に付けた力が、上位レベルの欲求を実現する前提になっているのかもしれない。を、これまでの言葉もとりいれて
他人が与えることで欲求を自分の力で満たしていく力を身に付けていないと、他人が満たしてやれない欲求を持った際に途方にくれる。他人が満たしてやれない欲求を自分で満たそうと思わなくなり、さらには、欲求をもたなくなるようにもみえる。と修正してみた。原型とどめていませんね。
どうかな。乱暴な論理展開は含まれていると思うが、私の中では整理されてきたと思う。つきあっていただいたハリーさんには感謝しています。
最後にちょっと補足。もともと子どもに何でも与え過ぎるのはどうかという話だったが、子どものときに与え過ぎると一生ダメと思っている訳ではありません。大人になってもまれてから生きる力の不足に気付いても取り返しはつくと思っています。逆に大人になってからも生きる力が衰えることがあるだろうと思います。
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