そふぃあさんが、「すこし改まって」で
私も戦後の世代ですが、生まれたときはまだまだ日本が貧しかった頃でした。と書かれています。
現代の若者や我が子を見るたびに、物質的には恵まれた時代だと、しみじみ思います。
しかし、モノが豊かになった分、頭を使ったり工夫したり想像したりすることが
減ってきているな、ということも確実に感じます。
欲すればいくらでも手に入る時代、我慢したり辛抱したり苦労するのは
馬鹿げたことなのかもしれないですが
私も今から見れば子供の頃は豊かではありませんでしたが、物質的に窮乏を感じたことはありません。大学時代は親元を離れ仕送り+奨学金 (+バイト) で生活していたので決して自由にお金が使えた訳ではなかったのですが、それで不幸だと思ったことはなく、その範囲で生活することを楽しんでいたように思います。帰省は周遊券を使えば急行は追加料金が不要だったので、夜行の急行 (寝台車ではなく一般座席) を使ったりしていました。就職してからも多少楽になったものの、一人暮らしは変わらないので、お金をセーブしながら生活を楽しむのは変わりません。そのレベルでの生きていく力はあったと思います (今も貧乏性が抜けないのはちょっと困る点)。
一方今の子どもたちは、そふぃあさんが指摘されるように、物資的に豊かになっています。工夫、想像が足りないのは、そうしなくても生きていけるからだと思います。物質的だけでなく、精神的にも、少子化と家庭内労働の短縮化で親のケアが行き届くことと、叱らない育て方の広がりによって、自分で問題を解決しなければいけない局面も減ってきていると思うのです。
こんな満たされた世の中で子どもたちは何を目標にして生きていくのだろうか。
はりーさんが、「抱負」で、
マズローの言う通り、自己実現は人間の最高次の欲求であり、一人ひとりがそれに向けて成長していると実感できるときにこそ、大きな価値が産み出される。と書かれているように、物質的要求 (マズローでは1. 生理的欲求と2. 安全の欲求に対応) が満たされていても、その上の欲求がある。低レベルの欲求が実現されていることは、高次の欲求を実現するためのスタートライン上で優位な位置にあるともいえるのに。
もしかしたら、低レベルの欲求 (1. 生理的欲求と2. 安全の欲求) は自分の力で満たしていくことが、上位レベルの欲求をいだく前提になっているのかもしれない、とも思う。
昔大学時代のことだが、本宮ひろ志のマンガで、「近頃の若者は恵まれているのでなっとらん」と言われた主人公は、「恵まれていて何が悪い。我々若者は恵まれたものを受け入れ、そこから新しいものを創っていくのだ」と反論するシーンがあった (かぎ括弧でくくっていますが記憶はめちゃくちゃあいまいです)。私はその当時この主張に違和感を持った。ハングリー精神と言うかそういうものが必要なんじゃないかと思った。
一方、海老沢泰久が井上陽水のことを描いたノンフィクション「満月 空に満月」では、
... そのころは、豊かな生活とか豪華なものとかを知らなかったからね。その存在そのものを。でもその意味では、いまだに知らないのかもしれないんだよ。あるところでは、そういう豊かなものとか豪華なものを拒否している部分もあるしね。という記述があって、自分はどうなんだろうかと思う。今は駄目になっているとは思わないが、それはレベルの問題であって、豪華なプールや美女に囲まれた生活だったら駄目になるかも。今NEETと呼ばれている人達は、そこまで行かないレベルで精神が駄目になった (と言うのはいいすぎですが) といえるのかもしれない。
ようするに、これがなさけないところで、精神至上主義というか、ものに対して豊かになっていくことで精神が汚れていくんじゃないかという神話にまだふりまわされているところがあるんだよね。でも一方では、そこらへんでふりまされるような精神じゃ、ぜんぜん駄目だとも思うんだよ。豪華なプールや美女に囲まれた生活で駄目になる精神じゃね。...
散漫になってしまいました。豊かさとモチベーションに関して、今度は個人レベルではなく社会レベルで考えてみたいと思います。