ましてや集団に属する人の意志が、死を選択するという方向で揃うとは考えられないのだ。
私には人に死ねとも言えない。殺す勇気もない。まして自分の家族や隣人に対して。
尊敬する長老が決めたとしたら? 村人に死ねと自分から言い出すような人だったらもともと尊敬されていないだろ。尊敬する人が、そう言いださなければならない状況に追い込まれているのを知っていたら、そしてそのように追い込んだ人達からは自分も逃げることは出来ないと知っていたら、その選択を受入れるかもしれない。
well-formedな「命令」という形ではなかったのかもしれないが、住民がそうとらえなければならなくなるほどの関与はあったとしか考えられないだろう。そしてそれは第三者から「命令」に見えておかしくない。
「俺とデュエットしないとセクハラするぞ」
リンク:
朝日新聞 社説:集団自決判決?司法も認めた軍の関与 (魚拓)
「沖縄ノート」には座間味島で起きた集団自決の具体的な記述はほとんどなく、元隊長が自決命令を出したとは書かれていない。さらに驚かされたのは、元隊長の法廷での発言である。「沖縄ノート」を読んだのは裁判を起こした後だった、と述べたのだ。-- 誰かにそそのかされたんですね。
毎日新聞 社説:沖縄ノート判決 軍の関与認めた意味は大きい (魚拓)
読売新聞 社説:集団自決判決 「軍命令」は認定されなかった (キャッシュ禁止)
産經新聞 【主張】沖縄集団自決訴訟 論点ぼかした問題判決だ (魚拓)
なお、私の主張は「命令」があったか否かの事実認定の問題ではない。住民がなぜ「集団自決」に至ったのかということを想像してみてもらいたいということだ。
以前「沖縄戦終結メモ」で参照した仁さんのブログへのリンクをもう一度あげておきます。
◆木偶の妄言◆ 「沖縄慰霊の日に」
◆木偶の妄言◆ 「(補稿)沖縄慰霊の日に」