2009/12/29

地球時代の未来を設計する

おはようございます。

土曜日は、ヴェルナー・パントン展の後、早稲田大学で行われた公開シンポジウム「地球時代の未来を設計する:場の論理の展開」へ行って来ました。

最初の「場」の理論の創始者清水博氏による「場の設計原理と日本のこころ」は、私にとって哲学的な内容 (= よう分らんもの、という意) で、よく分らない部分もあった (って同語反復か)。

「場の理論」は、多様性の中で秩序がつながって行くという「二重生命論」だという。これでだけではさっぱり分らないが、自己と他者の認識において、自己の確立を前提とし自己と他者が独立したものと考える「自他分離」という立場と、その正反対の「自他非分離」(= ホリスティックな生命) という立場があるのに対して、「二重生命論」ではこれらが共存していると考える。

これでもまだ分りにくいが、「卵モデル」だと分った気になる。ボウルに複数の卵を割っていれた時、卵の黄身は自他分離の自己、白身は自他非分離の状態と考える。ボウルの中で自己の描くである黄身は白身を介して他者とつながっている。そしてボウルが、「場」ということなる。ということかな。

最初に「近代文明の限界」として「経済危機の繰り返し」と「COP15の失敗」という話から始まって、「子ども手当は結局子どもからの借金」という話も交えて「二重生命論」につながって行ったのだけど、その論理展開はフォローできていない。しかしその後に出てきた「贈与循環」というのがキーワードなんだろうと思う。

三番目の井出祥子氏の「場の言語学:社会インフラとしての言語コミュニケーション」は、この清水氏の理論を言語学に適用したもの。

同じ事象を示すのに、
英語:「太郎がボールを投げて、窓ガラスを割った」
日本語:「太郎がボールを投げて、窓ガラスが割れた」
というような違いがある。

英語は主体を必要とする他動詞を多用する対格言語、日本語は自動詞を多用する「能格言語」という。

これで何を言っているかというと、日本語は、場を共有している人には分る主体を省略する、自他融合性の強い言語と言うことだ。日本語を話すと言うことは、二重生命を意識することを意味する。日本語は場の研究に資する、という話であった。

批判する訳ではないが、こういう比較文化論は結構日本人には受けるものだ。

2番目の出井さんの話は、日本の戦略、政策に関わる話で、「場」とのつながりは理解できなかったけど、私には最も興味深い話だった」。特に、「日本はリスペクトされる国を目指すべきで、それも経済や軍事力など量ではなく、精神的な面でリーダシップをとれる国だ」というところはおおいに共感できる。出井君よく分ってるな、ってすみませんすみません。

全ての感想をまとめきれていないが、これらの講演で断片的な部分で他の考え方とつながる部分も出てきている。少しずつまとめて行きたい。
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