2007/07/29

改憲か解釈か

こんにちは。選挙行く前というか投票日前に書いておくべき話題だったと思いますが...

クーリエ・ジャポンに、森巣博氏による「越境者的ニッポン」という連載があります。森巣博は、ギャンブラーで作家。連載の第1回ではそのことについて書いていました。自分のことを「チューサン階級」(中学3年生程度の知識の持ち主) と称していますが、博学で種々の経験もあって文章も論理的で面白い。

3回目 (8月号) 「正論といふもの」では「憲法改正」に関して書いています。

・「国民投票法」は「憲法改正手続き法」であるはずが政府もメディアもちゃんと伝えていない。
・自民党が出した新憲法草案は「新憲法制定」というべきもので、「改正」という言葉を使うのもおかしい。
・言葉の置き換えによる言論誘導が行われており、全てがなし崩しに進んでいる。
・「戦争犠牲者」も本来は「戦争被害者」であり、「犠牲者」への言い換えは「加害者」の存在を不問にする。
・森巣自身は「改憲」派という立場をとる。条件付き改憲派。
・今までの憲法は、政府 (法の執行機関) によって解釈を曲げられてきた。
・これにより「現実が憲法にあわない状態になっている。
・現実を認め、憲法を政府が守れるものにしてあげましょう。
・しかし、そうやって決めた新しい憲法は絶対に守らせることが必要だ。
・守らせるための担保が必要となる。憲法とは別に罰則規定を定めた法律が必要だ。
・これこそが正論だ。

私も、『「お釣りはお駄賃」は許しません』 (2005年 10月 16日)では、
第9条改正は、前原さんと同様、条文の矛盾をなくす意味では必要と思っています。ただ、現在検討されているのは、憲法の位置付けを、「国家権力を抑制する」ものから、「国民のあり方を規定する」ものにすることを主眼としているらしい。
と書きました。ごまかしが嫌いなのです。

一方で、私の立場は護憲にあることは読み取れると思います。憲法改正でさらに憲法を改正しやすくなったり、国民のあり方が規定されることで、ただでさえ同調圧力に弱い (「空気読め」に抗いきれない) 日本人から自由な議論が奪われることを恐れています。

また、解釈憲法によっても、今まで平和が維持され、繁栄を享受出来ている面もある。今のままで良いのでは? 矛盾を包含したものも世の中じゃない?という思いも前よりも強くなってきたと思います。

そういう考え方に影響を与えたものの一つに内田樹さんの憲法論があります。「憲法の話」 (2007年05月03日) があります。
二つの対立する能力や資質を葛藤を通じて同時的に向上させることを武道では「術」と言う。

「平和の継続」と「自衛力の向上」を同時に達成しようと思ったら、その二つを「葛藤させる」のがベストの選択なのである。
九条と自衛隊が矛盾的に対立・葛藤しているという考え方は、『九条どうでしょう』でも詳述したように、戦後の日本人がすすんで選んだ「病態」である。

...

本来は存在しない九条と自衛隊の葛藤を苦しむという不思議な病態を演じることを通じて、日本人はその「疾病利得」として、世界史上例外的な平和と繁栄を手に入れたのである。

この「演じる」ということはキーワードかもしれませんね。

さて、もとの森巣博氏の主張に戻ります。私はこれは全面的に「正論」だと思います。括弧付きの「正論」は、「そうは言っても」という諦観を含みます。そこは「絶対に守らせる」というところが共有認識になっていないところにあります。まずそこが共有認識になるまで、私は「護憲」の立場をとるでしょう。

追記: 藤代裕之@ガ島通信さんが、「[ニュース・時事ネタ]投票完了」で、「投票完了」のトラックバックもお待ちしています、ということですのでトラックバック送ります。

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