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2004/09/11

「感動で鳥肌が立つ」って言うじゃない?

おはようございます。金田一京助です(ウソ)。
ときどき新聞の読者の声などで、「感動で鳥肌が立つ」という表現に違和感を感じる、という意見を書いている人がいます。鳥肌は、寒さや恐怖を感じたときに出るものだというのです。辞書にそう書いてある、という人もいます。
年輩の方に多いような気がしますが、感動で鳥肌がたったという経験がなかったのでしょうか。それとも忘れちゃったのでしょうか。もちろん、感動は感じ方であって人によって違うものなので、そう感じたことがないというのは大いにありうると思いますが、他人がどう感じるかまで口出しすることはないと思います。新聞社もなぜそういう意見を何度も載せるのでしょうか。
私自身は「おいしくてほっぺたが落ちそう」という人こそ信じられません。辞書には載っていますけどね。それとも、私がそんな経験をしたことがない、それほどおいしいものを食べたことないってことか?
でもなんで鳥肌が立つのかな。「畏敬の念」っていう感じかもしれません。

「感動で鳥肌が立つ」って言うじゃない?

おはようございます。金田一京助です (ウソ)。

ときどき新聞の読者の声などで、「感動で鳥肌が立つ」という表現に違和感を感じる、という意見を書いている人がいます。鳥肌は、寒さや恐怖を感じたときに出るものだというのです。辞書にそう書いてある、という人もいます。

年輩の方に多いような気がしますが、感動で鳥肌がたったという経験がなかったのでしょうか。それとも忘れちゃったのでしょうか。もちろん、感動は感じ方であって人によって違うものなので、そう感じたことがないというのは大いにありうると思いますが、他人がどう感じるかまで口出しすることはないと思います。新聞社もなぜそういう意見を何度も載せるのでしょうか。

私自身は「おいしくてほっぺたが落ちそう」という人こそ信じられません。辞書には載っていますけどね。それとも、私がそんな経験をしたことがない、それほどおいしいものを食べたことないってことか?

でもなんで鳥肌が立つのかな。「畏敬の念」っていう感じかもしれません。

2004/08/14

ケータイ、TVが起こす新しいタイプの言葉遅れ

毎日新聞に 新教育の森:アドレス探し/8 対話奪う「TV子守」という記事がありました。

3歳になっても言葉を話さない子供が増えているとのこと。表情もない。川崎医科大(岡山県)の片岡直樹教授(小児科)によると、人間の心をはぐくむ2歳までの時期に、テレビやビデオで一方的に情報を浴びせると、自分と他人との関係を理解できず、コミュニケーション能力や五感が育たない、とのこと。子供がテレビ、ビデオを見ている間は泣き止んでいるので、家事をするため等で、そのまま見せ続けることが原因になる。

先日買ってきたPRESIDENT 2004.8.30号にも同様の記載があって、感想を書こうと思っていたところでした (こちらも片岡教授への取材なのでもとは同じでした)。
ここでは、ケータイも原因のひとつにあげられています。授乳しながらメールのやりとりをするので、赤ちゃんの目はみていない。赤ちゃんは言葉はしゃべれなくとも何かを訴えかけているが、それに反応をしてあげられない。また、テレビゲームもインタラクションは限定されており、多様な反応が得られない。

私自身も、子供が泣き出したらこの一本というビデオを用意していた。仕事のことを考えながら相手をしていたりするので訴えかけられても反応できなかったかもしれないし、そもそも訴えかけられているといっても気が付いていなかったと思う。また、ゲームではないですがそれに近いインタラクティブ絵本を与えることが教育的効果があるとも思っていました。言葉がしゃべれなくなることはなかったのは幸いかもしれません (補足: 以上は父親の私の話なので、育児の大部分を占めていた母親はふつうにちゃんとコミュニケーションとっていて問題の発生する可能性はなかったといえますが)。また、子供の成長の間に色々問題が出るものだとは思いますが、その一因だったかもしれないとも思います。

一方で育児ノイローゼということもあり、母親にも携帯メールでストレス発散も必要と思いますし、育児を手伝ってくれる人のいない核家族化した現状では、難しいところだと思います。

2004/07/31

言語は生き物、だけど...

日本語テスト、私は全敗でした。^^からのトラックバック。私もちょっと考えてみたいと思います。

ニュースの基になった文化庁の発表はこちら

文化庁が正解としているものの中には、yodaway2さんがコメントで指摘されているように、すでに意味が変わっているいるものもあるかもしれないし、ただ自分が/皆がそう思っているだけかもしれません。「憮然」は本当にこんな意味があるのかという感じだし、「とんでもございません」は、なぜいけないのか分からない人も多いと思います。「的を得る」は正しくは「的を射る」ですよといえば誰もが納得するでしょう。「姑息」は大掛かりな「卑怯」や周到に準備された「卑怯」には使わないと思うので、やはり「一時凌ぎ」の意味は残っているのでしょう。

言語は生き物であって、変わっていくのは仕方がない

と思う一方で、

言語はプロトコル、ころころ変わってしまってはコミュニケーションがとれなくなる

という思いがあり、常に揺れ動いている状況です。

基本はやはりコミュニケーションなので、
1) 正しくても聞き手がそのまま誤解するようだったらなるべく使わない
2) 正しく使って聞き手が誤解を糺すことが期待できるなら使っても良い
3) 誰もがわざとということが理解できるなら、間違った使い方(=ボケ)をしても良い

というのが基準かなと思います。

1) は例えば、「気がおけない」。本来の意味は「気遣いする必要がない。遠慮がない。」の意味なのだが、「気を許せない」という全く逆にとらえている人が多い。「おかなくてよい」を「おけない」という可能動詞で表現されているので、誤解されるのも当然といえば当然といえる。こういう場合、正しく伝えたいと思ったら、もう使わないほうが良いと考えています。「気遣いする必要がない」といえば良いことと思います。

2) は「的を射る」など。これは正しく使っても「的を得る」を使っている人に誤解を受けることはないと思うし、正しい使い方に揺り戻せることが期待できる。ただ口頭では音も似ているので気が付かないかもしれません。「他人事(ひとごと)」も文字を見せながら話さないといけません。

3) は「なにげに」など。わざとだと分かるので使っていいと思いますが、TPOは考えたほうが良い(広告代理店の提案書に書いてあった。そんな提案採用するなよ)。さらに気をつけなければいけないことは、それが正しいものとして定着することと、定着しないで死語になっているのに気がつかずそのまま使っちゃうことですね (「ナウい」とか「イマい」とか、存在を知っているだけで恥ずかしいかも)。

言語、日本語に関しては今まで書いたことはなかったのですが (実は別のブログがあってそちらで書いていこうと思っていましたがずっとほおりっぱなし)、今後こちらでも少しずつ取り上げていきたいと思います。