2004/07/31

言語は生き物、だけど...

日本語テスト、私は全敗でした。^^からのトラックバック。私もちょっと考えてみたいと思います。

ニュースの基になった文化庁の発表はこちら

文化庁が正解としているものの中には、yodaway2さんがコメントで指摘されているように、すでに意味が変わっているいるものもあるかもしれないし、ただ自分が/皆がそう思っているだけかもしれません。「憮然」は本当にこんな意味があるのかという感じだし、「とんでもございません」は、なぜいけないのか分からない人も多いと思います。「的を得る」は正しくは「的を射る」ですよといえば誰もが納得するでしょう。「姑息」は大掛かりな「卑怯」や周到に準備された「卑怯」には使わないと思うので、やはり「一時凌ぎ」の意味は残っているのでしょう。

言語は生き物であって、変わっていくのは仕方がない

と思う一方で、

言語はプロトコル、ころころ変わってしまってはコミュニケーションがとれなくなる

という思いがあり、常に揺れ動いている状況です。

基本はやはりコミュニケーションなので、
1) 正しくても聞き手がそのまま誤解するようだったらなるべく使わない
2) 正しく使って聞き手が誤解を糺すことが期待できるなら使っても良い
3) 誰もがわざとということが理解できるなら、間違った使い方(=ボケ)をしても良い

というのが基準かなと思います。

1) は例えば、「気がおけない」。本来の意味は「気遣いする必要がない。遠慮がない。」の意味なのだが、「気を許せない」という全く逆にとらえている人が多い。「おかなくてよい」を「おけない」という可能動詞で表現されているので、誤解されるのも当然といえば当然といえる。こういう場合、正しく伝えたいと思ったら、もう使わないほうが良いと考えています。「気遣いする必要がない」といえば良いことと思います。

2) は「的を射る」など。これは正しく使っても「的を得る」を使っている人に誤解を受けることはないと思うし、正しい使い方に揺り戻せることが期待できる。ただ口頭では音も似ているので気が付かないかもしれません。「他人事(ひとごと)」も文字を見せながら話さないといけません。

3) は「なにげに」など。わざとだと分かるので使っていいと思いますが、TPOは考えたほうが良い(広告代理店の提案書に書いてあった。そんな提案採用するなよ)。さらに気をつけなければいけないことは、それが正しいものとして定着することと、定着しないで死語になっているのに気がつかずそのまま使っちゃうことですね (「ナウい」とか「イマい」とか、存在を知っているだけで恥ずかしいかも)。

言語、日本語に関しては今まで書いたことはなかったのですが (実は別のブログがあってそちらで書いていこうと思っていましたがずっとほおりっぱなし)、今後こちらでも少しずつ取り上げていきたいと思います。

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