「デュシャン賞」という訳で、「レディメイド」という概念を確立した有名なデュシャンの
今行われているヨコハマトリエンナーレに、冨井大裕の "belt is standing" と "measure" が展示されている。作品には素材が書いてあるのだが、それぞれ「ベルト」と「メジャー」。 先日ヨコハマトリエンナーレでサポーター活動したときは、音声ガイドの貸し出しと回収の係りで、回収した音声ガイドを貸し出し窓口に運ぶ時にこの横を通るのだが、その際に観客の反応も見ていた。やはりデュシャンに言及している人もいました。
面白かったのは子供が「そのままじゃん」と言っていたことで、共感してしまった。 デュシャンが使った方法がまだそのまま通用するのかという妙な感慨があります。それともデュシャンと違って何か加工がしてあるのかもしれませんし、何か別の意図が込められているのかもしれません。
ちょうどヨコハマトリエンナーレ関連の情報を調べていたら、横浜美術館のキュレーター天野太郎氏の文章があった。
ヨコハマ創造界隈 VIA YOKOHAMA 第13回 説明を要する現代美術 - 「キャプション論」、再び-
近代以前においては、例えば絵画はその主題とした神話、歴史、宗教において、それらの教養を十分に備えた受容者だけが、キャプションを必要としないで鑑賞出来た。
...
近代以降においては、教養を強化するため、キャプションは不可欠のものとなった。キャプションを必要としない「教養」ある人々が受容者であった時代から、「教養」を身につけるために美術を「学ぶ」ためのキャプションを必要とする受容者の出現が、こうした事態を生んだのだ。無論、近代の美術が、「美」の芸術から「概念」の芸術へシフトしてきたこともまた、作品が、キャプション=テキストを強く要請してきた理由の一つに挙げられるだろう。
キャプションがないとどう見ていいか困るというのは、コンテキストは違うものの、先日 名和晃平展で経験したことだ。
さらに、
横浜トリエンナーレに代表されるような現代美術では、キャプションばかりか、作品を巡るテキストはある意味で必須だ。例えば、主会場の一つ横浜美術館で、最初に遭遇する中国のアーティスト、尹秀珍(イン・シウジェン)の作品。まるで映画のフィルム入れのような金属の容器に、布らしきものが詰められた《one sentence》という作品。
会場で、与えられる情報は、このキャプションと、何よりも作品自体。これでは、何のことやら、謎めいたままだ。
と書いている。
実は、言及した音声ガイドはその穴を埋めている。トリエンナーレの総合ディレクター逢坂恵理子横浜美術館館長がそのことを語っている。
ヨコハマ経済新聞【インタビュー】2011-08-07
ヨコハマトリエンナーレ2011・逢坂総合ディレクターに聞く
今回のヨコトリが挑む、新たなステージとは?
音声ガイドの貸し出しもあります。
―それは画期的です。普通、現代美術の展覧会ではあまりしませんよね。現代美術のファンは、説明を嫌う人も多いですから。
そうなんです。でも今回は、現代美術にあまり馴染みない方にも来て頂きたいので。
私自身はまだ音声ガイドの内容は知らないのだが、今度観客として行く時にはぜひ借りてみようと思う。