2009/10/17

「よろしかったでしょうか」の意味

こんにちは。

先日、「いらいらさせる言葉 [英語編]」で、
「ウエダさんのお宅でよろしかったでしょうか (いきなりなぜ過去形?) 」とか「こちらがコーヒーになります (いつなるんだよ)」など腹立たしい言葉が多くありますね。
と書いたら、pacer3さんから「過去形の日本語ってのは、昔からえん曲の丁寧語としてあったようですね。」とのコメントいただいた。

そういう使い方のことをしらなかったのだけど、ちょうどその前10月9日にNHKで放送された、「みんなでニホンGO!」という番組で「よろしかったでしょうか」がとりあげられたそうだ。

はてな匿名ダイアリー 2009.10.10 これでも「よろしかったでしょうか」を認めない奴は何が不満なんだ!
乱れた敬語とされている「よろしかったでしょうか」は文法的には全く間違っていない。「た」は婉曲表現であると明海大学井上史雄教授。
井上史雄に関しては以前取り上げたのだけど、彼の著書は基本的には言語の使用のされかたをそのまま受け入れるスタンスだった。「婉曲表現である」というのは、現在そのような使われ方をされているということだろう。文法的には全く間違っていないというのも、構文的に間違っていなくても、意味論的に間違っているものや運用論的に間違っていないということの検証が必要だろう。

ちょっと補足すると、運用論的に間違っているというのは、「○○部長はいらっしゃいますか?」と電話で問われて、「はい、そばにおります」と答えるようなもの。

この匿名ダイアリーの人は、NHKの取材をまとめるとOKと結論づけられたものが、一般のアンケートでは否定的であることに対して、それはクレームをつける人が (特に東京で) 多いからであって、言葉狩りであるとして断罪している。

これに対して、次のような意見もあった。

Living, Loving, Thinking: 「よろしかったでしょうか」はやはりよろしくない
「た」は他のありようがありえないような確定性、排他的な断定性を表す。
...
とすれば、何故「よろしかったでしょうか」がむかつくのかは略自明であろう。
承認を求めているようにみえて、否定を許さないというニュアンスがあることを指摘している訳だ。

さて私は最初「ウエダさんのお宅でよろしかったでしょうか」は腹立たしいと書いた。これは電話での第一声に対しての反応で、実はレストランで確認される「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」は私自身は問題視していない。

レストランでの注文の確認のシーンはこうだ。
・ご注文を繰り返させていただきます。
・ハンバーグステーキセットと ...
・ご注文は以上でよろしかったでしょうか。

ここで過去形にしているのは、私の理解を述べた、その表明 (過去というより完了) に対する承認を得ている訳で、決して客が注文するものを押し付けている訳じゃない。

一方で電話の「ウエダさんのお宅でよろしかったでしょうか」は、「私は (カモ顧客候補リストをみて) 電話をかけた、その電話番号は間違ってなかったか」ということを問うている訳だ。

知るか。電話掛けてって頼んでねーよ。

腹立たしいというのがご理解いただけると思う。

ところで「いらいらさせる言葉 [英語編]」でいただいたコメントに対して、私は、
英語では助動詞の過去形が丁寧として使われるのですが、そこには共通する何かがあるのかもしれませんね。
と書いた。

"Living, Loving, Thinking"のSUMITA氏は、
「よろしかったでしょうか」の「た」は「婉曲表現」であると国語学者の井上史雄氏は述べているらしい。そうなの? ただ、「よろしかったでしょうか」の〈外資系起源〉説があったと思う。英語では、will you…?よりもwould you…?の方が丁寧な表現であるように、時制を過去にすると丁寧になるということがある。「よろしかったでしょうか」は外資系企業の英語の接客マニュアルを和訳するときに〈丁寧としての過去〉を素直に直訳してしまったのが起源なのだと。と書きつつ、その出典は忘れてしまった。
と書いている。私は「共通する何かがある」と書いた時に、誤解のことも意識していた。

以前「コーヒーが飲みたい」という文に対して、「コーヒーが何を飲みたいのかな?」という形で間違いを指摘している人がいた。この人は、主語と目的語があって、主語は「〜が」、目的語は「〜を」で示さねばならないという固定的な考えを持って言っているのだと思う。きっと日本語で「私はコーヒーが飲みたい」というのが自然な文として認識できなくなっていたのであろう。

9 件のコメント:

nsudou さんのコメント...

なるほど。奥深いんですな。いずれにしても「よろしかったでしょうか?」と言われるとこころのなかで「よろしくない!」「親の顔みたい!」って言う反応が出る私です。

raphie さんのコメント...

やはり東京の反応という側面は強いのではないかと感じます。
北海道に行くと、過去形丁寧語は生き生きと生活に息づいています。
「おはようございました」には驚かされましたが、電話をとって東京では「もしもしらふぃです」と出るところを、「もしもしらふぃでした」と過去形で受け取ってしまいます。そういう地域で聞く「よろしかったでしょうか」には何ら違和感がありません。東京周辺で使わなくなってしまった過去の用法なのかどうかはわかりませんが、意外と地方に残る言葉に日本語の起源を見ることはありうるのではないかと最近司馬遼太郎を読みながら考えています。

yoshihiroueda さんのコメント...

★ nsudouさん、
その反応は心の中に止めておいた方がよいかもね。はてな匿名ダイアリーの返信の中にある「そういうちょっとしたことで前触れ無く烈火の如くキレ始めるオッサンとかいるけど、あれなんなんだろうな。 」って言われるおそれあり。電話で「よろしかったでしょうか」と言われて「いや今もそうです」って言ったら意味が通じなかったみたい。ただマニュアルにあるとおり言ってるだけなんでしょうね。

yoshihiroueda さんのコメント...

★ らふぃさん、
北海道で電話にでるときに過去形でいうというのは、参照リンクにも書いてありますが、私も以前聞いたことがありました。方言は別にして考えないと行けないでしょうね。ただ北海道だけでなく東京以外ではよく使われているというのは私も今回初めて知ったのですが、そうすると方言と考えるのではなく一般現象と考える必要があると思います。東京が厳しいというか寛容でないという視点もこれまで持っていなかったので私にとって新しい知見です。

bucmacoto さんのコメント...

おばんでした(と、もはやあまり使用しないけど使ってみる)誤用なのかもしれませんが、私は 「べき」 を 「可き」 というような理解をしています。 (朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり の 可です)「『〜が』という語法は、主語を示すように使われるべき」という文章ならば、「『〜が』という語法は、主語を示すように使われる方が過半数(50%以上)の正しさですよ」という程度の意味合いである。それが本来のニュアンスであったはずという立場。まぁ個人的ローカル基準なのかもしれません ^^

yoshihiroueda さんのコメント...

★ ばくさん、
言語の許容範囲は実際はかなり広く、間違いの許容も、変化への対応もできる能力を皆が持ち合わせていると思います。今まで割と孤立した文化圏だったので、洗練される方向というか細かい違いに意味を見いだす方向に進んできましたが、国際化で外国人との交流が進むと、日本人ももっと乱れというか単純化に対して寛容になってくると思います。

pacer3 さんのコメント...

方言も、別に考える必要は無いように思います。方言には、古い日本語の表現が残っているからです。北海道や、東北地方の一部の「おはようございました」、「おばんでした」も、一緒だと考えます。たとえば、「○○部長はいらっしゃいますか?」と尋ねて、「はい、おりました。」と答えられたときは、いるのかいないのか、どっちなんだ!と一瞬思いましたが、過去形文化だなと思い、素直に、「代わっていただけますか」と答えられました。いずれにしろ、乱れといわないまでも、生きている言葉は変わっていくものです。私は、結構許容派ですねぇ。

yoshihiroueda さんのコメント...

★ pacer3さん、
ちょっと誤解を招く表現だったかもしれません。方言は別に考える必要がある、というのは標準語の語彙や文法を基準にして、方言が間違っているとか適切ではないと断罪してはならない、ということです。pacer3さんがとられた「どっちなんだ!と一瞬思いましたが、過去形文化だなと思い、... 」という姿勢と同じです。

yoshihiroueda さんのコメント...

そうそう、井上ひさしの「國語元年」というテレビドラマがありましたね。明治の初めに共通語を作る役に任命された官吏のお話で、日本の各地の言葉の多様さ、それぞれの文化を愛する人々に認識し、たいへんな仕事を引き受けてしまったと思うんですよね。