ただしくは、
私は今でも思い続けているよ
「ワタシワイマデモ」なんですね。「ワタ」の部分が聴き取れない。
参考 (参考にしてないけど)
CloseBox and OpenPod 2008/04/08 女性ボーカルの新基準は青山テルマになる
私は今でも思い続けているよ
「沖縄ノート」には座間味島で起きた集団自決の具体的な記述はほとんどなく、元隊長が自決命令を出したとは書かれていない。さらに驚かされたのは、元隊長の法廷での発言である。「沖縄ノート」を読んだのは裁判を起こした後だった、と述べたのだ。-- 誰かにそそのかされたんですね。
胡主席が貴賓席でチベット人の精神的指導者と語り合う度量を見せたら中国のメンツはつぶれるだろうか。その心配は無用だ。これこそ「調和」であり、中国のソフトパワーを高めることになる。ん? 待てよ。なんか中国側からの視点だな。
現在のダライ・ラマは独立論者ではなく高度の自治を求めている。その自治の範囲については五輪後にじっくり話し合えばいいことではないか。北京五輪を、災いを転じて福とする機会にすべきだ。五輪後に、ってそれでは何の譲歩も引き出せないのではないの? 五輪に協力するだけでなく、話し合いの場を持ったという事実もいいように利用されるだけだと思う。
一つやり遂げた気持ちと、肩の荷が一つおりた気分です。というと、なんか苦しんで書いていたみたいじゃないですか。
でもやはり寂しいなあ。明日からは、「山村さん、ブログ見てますよ。」、「山ちゃん、あのブログに載ってた店さあ。」という言葉も聴けないなんて。。。。。とも書いているのですが、それだったら断筆宣言せずとも細々と続ければ良いのではないかと思います。
山村社長のブログといえば多くの読者には、食べ物ブログとして知られるが、俺としてはやはり、山村社長のブログが「マジで機能している目安箱」としての側面について触れずにはいられない。繰り返します。
第18条 日記等の情報の使用許諾等
1. 本サービスを利用して、ユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。
2. ユーザーは、弊社に対して著作者人格権を行使しないものとします。これって、デジャヴュ。
2) ユーザーが本サービスにおいて情報等を掲載等した場合、ユーザーはエキサイト株式会社に対して、当該情報等について全世界において無償で非独占的に使用する権利(複製権、頒布権、翻案権、送信可能化権を含む公衆送信権を含みますが、これらに限られません)を許諾したものとみなします。また、ユーザーはエキサイト株式会社に対し、情報等に関して著作者人格権を行使しないものとします。これってコピペ?
公表権: まだ公表されていないものを公衆に提供し、又は提示する権利「著作者人格権を行使しない」ということは、公表されても文句言えないと言うことだよな。
SNSの世界において、ユーザーコンテンツは公開によって価値が生じるのではなく、非公開によって価値が生じるのではなかったのか。ここで、財産権に関しては
livedoor blogの方は、よりmixiの新規約に近いものの、それでもユーザーの権利がまずあり、例外としてプロバイダーにも一部権利があるという形を取っている。という記載がなされていますが、財産権としての著作権は執筆制作と同時に発生するものなので、「非独占的」という制約のもとでは原著作者の権利が無くなる訳でなく、その意味では前置きは必要ないでしょう。一方で公表権に関しては、明確に否定していますので問題と思います。
...
ところが、mixiの新規約には、ユーザーの権利が明記されていない。
エディオンは3月1日から31日まで、デオデオ(広島市)やエイデン(名古屋市)、ミドリ電化(兵庫県尼崎市)などグループ約1000店で交換を受け付ける。HD—DVD製品のサポートは続け「使い続けたい人と切り替えたい人の両方のニーズに応える」(久保允誉エディオン社長)。この費用は東芝に請求するのかと思ったら、
回収製品の処分方法は未定だが、東芝に費用負担は求めない。ということだそうだ。
きっとすべてわかっててとか
何も聞かないでただ笑ってて
話し出すまでずっと待ってて
強がる愚痴にだって黙ってて
堪えてた弱い言葉とか、後の方は韻を踏んでいると言う点ではちょっと苦しいけど。
何も言わないで受け止める君の方がずっとオトナ
並んだブランコ揺られながら
ふいにいいんだよなんて言うもんだから
滲んだ瞳から
溢れないよに空を見上げたら
...
I'm ソーリソーリ 本当にソーリってね。表記はもとは知らないので勝手にカタカナにしたりしました。
いつものよーに発病したビョーキ
全ていいチョーシ
気分はストーリーの主人公に
薄情に思われちゃうのも承知
でも女同士分ってこの通り
ゲッカスイモクキンドニチヨービ
いまはあいつを最優先で
<それがあんたの信条でしょうが、は、阿呆(あほ)らし、阿呆らしすぎて阿呆らしやの鐘が鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわおまえのド頭に、とか云(い)って、なぜかこのように最後は大阪弁となってしまうこのような別段の取り留めも面白みもなく古臭い会話の記憶だけがどういうわけかここにあるのやから、やはりこれはわたしがかつて実際に見聞きしたことであったのかどうか、さてしかしこれがさっぱり思い出せない。>(「乳(ちち)と卵(らん)」より)読みにくいよ!
「文章の切り際ですね。『。』(句点)が、音楽の中で見る、私が感じる美しさに相当する部分だと思います。(自分が書く文章の中に)なかなか『。』が出せないのは、それも関係あるかもしれません。音楽は、途中どれだけダラダラダラってなっても、最後にバチンって止まればかっこいい、っていうのがあるんですよ。だから、『。』ってそういうものだ、と思っている部分があるのかもしれない」と本人の分析があります。
文学、音楽、演劇、ダンスなど多くの分野で批評活動をしている佐々木敦さんは「作家は、その人にしかない言葉の使い方や選び方ができるのが一番の才能。『ここでこういう言葉を使うか』というような、ハッとさせられる使い方をするかどうかが、文学と、文学でないものを隔てる」と指摘する。その上で、川上さんの作品を「言葉に力がある。それが彼女の才能であり、あらすじの説明では出てこない」と言う。文学を世界観やストーリーではなく文体で見ているんですね。