過ぎちゃいましたね。
今日は私は淡々と書きます。
多くの関西在住のブロガーの皆さんが被災状況を伝えてくれています。関西には親戚で被災した人はいるのですが、幸い亡くなった人や大きなけがをした人はいませんでした。被災者の皆さんの心情が分かっていないところがあると思いますが、ご容赦下さい。
その頃私は横浜に住んでいました。あの朝起きてテレビをつけたら、関西で大きな地震が起こったらしいといっていました。まず感じたのは、なにかの間違いじゃ、ということでした。地震が起こったらテレビですぐに各地の震度が出るのが普通だったので、「らしい」って何だろうと思ったのでした。情報を伝えることもできないくらいの被害だったんですね。また、「関西に地震はない」と言われていたので、そのような準備もできていなかったんですね。
朝の段階ではニュースも混乱していて、被害の大きさがなかなか伝わってきませんでした。普通に出社して、途中に情報もはいっていたと思うのですが、事の重大さを実感したのは帰宅してからのように思います。
その後も日が経つにつれ被害の大きさが分かってきました。こんなときやはり感じたのは、お金を送る事くらいしかできないもどかしさでした。
海外のメディアが、暴動等起こっていないことを驚きの目で伝えていましたね。自分がほめられた訳ではないのですが、誇らしいと思うと同時に、日本人の自制心、いざと言う時の強さを神戸の人たちが証明してくれたようでありがたいと思いました。時代が違うのですが、関東大震災の時のような民族差別も起こりませんでした。テレビでは、神戸は昔から国際都市で多民族が融和して生きてきたと解説していました。東京ではこうはいかないだろうともいっていましたが、仮定の話になるのでそうかもしれないと思うほかありませんでした。
以前も書きましたが、田中康夫氏(現長野県知事)が、女性用下着だったか生理用品だっかをバイクで配って回っていると雑誌の連載で書いていました。被災地で必要なものは何かということに関して、それまでの災害ではあまり話題にあがらなかったように思います。それを気付かせてくれた点でも田中氏の行動は評価されるべきものと思います。今回の新潟中越地震では「被災地に必要なもの」ということがかなり認識されていたようにおもいます。それでもカップラーメンだけあってお湯がないとか、その一方でなまものがだめになったということもあったようですが。
これはだいぶ後になりますが、仮設住宅への移行はなかなかすすまなかったときいています。仮設住宅が遠く不便という意見が多かったようです。2年後くらいに神戸の六甲山の北側の新興住宅地に行ったことがあるのですが、そこの公園に仮設住宅が建てられていました。確かに神戸の中心地までは遠いかもしれないが、ここから毎日通勤している人もいるのに、こんな遠いところなんていうのは失礼じゃないかと思いました。慣れ親しんだ土地や友人と離れるということは理解できますが、会おうと思えばいつでも会える距離なんですから。
地震保険にはいっていない人が多かったことも問題としてあげられていました。後で知ったのですが、地震保険は掛け金が高く、また火災保険の特約としてはいるのですが、火災保険の1/3しか補償されません。入るのをためらってしまいます。
ここ数日のテレビや新聞で、改めて被害の大きさを再認識しています。被害の大きさ、亡くなった人の多さよりも、今後を強く生きて行こうとする人々の底力に感動をおぼえます。難病の子が書いた「生きる力」という習字を見たら涙がでそうになりました。これからを築いて行く若い人の意志に対しては涙腺が緩む傾向にあるようです。歳をとったということか。
「生きる力」... あ、宿題忘れてた。
4 件のコメント:
いろんな特番を観て、改めてあのまるで戦争の後のような神戸の町を観て、被災者の方々がどんな思いをしたか、この10年どれほどの苦労があったことかと思うと共にあそこから立ち上がるんだから、人間ってすごいなぁと思いましたね。10年で一区切りとされて打ち切られる援助もあるようですが、まだまだ頑張っている人のためにできるだけのことを、と思います。
★はるかさん、阪神淡路の時はインフラの復興が優先されて個人への支援は不十分だったということを思い出しました。まだ精神的な傷をから癒えない人も多いのでしょうね。ところではるかさんはその当時はもう関東にこられていたのでしょうか。
はい、私は、幼稚園から既にこっちなのですよ。東京のひと、って感じがしませんか?(笑)
★はるかさん、そうでしたか。はるかさんの文をみるたびに、やっぱり関西人と納得しています。同じにおいを感じるのです、って私は生まれは関西じゃないですけどね。
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