おはようございます。かーくろうです。
山崎絵日和さんのところで知った「ウゴツール」を使ってみました。
さらに、その元情報は、mken1017さん「きままに_気楽に_まったりと」の「ウゴツール」です。
これだと震えながらマウス動かしても気付かれへんのがいいね(といいながらノートPCのトラックパッド使っていたのを忘れてました)。
ロゴ画像もこれに変えてみよう。
2005/01/29
やっぱり「生きる力」
こんばんは。銭っ子です (ウソ)。
さて、はりーさんの「親の成長(しつこいけど)」のコメントで、私は、「人それぞれって個人レベルに落したくないという思いもあって、また考えをまとめたいと思います。ちょっと待ってね。」と書きました。相当待たせました。まだ自分で満足いく答えを出せていないですが、それを待っていてはいつになるか分からないので、少しずつ出して行こうと思います。
再スタートの地点は、その前の「成長欲求その4」のはりーさんの「コミットメント」という言葉と私がコメントで書いた「意志」あたりになります。「意志」、「決意」、「コミットメント」、「自分自身との契約」。これが、成長欲求を満足させる原動力になる。それまで、「経験」、「力」を養ってきていなくても、やるしかない、自分が決めたことなら。
ということに関しては同意する。
同意している、しかし、やっぱり意志の力を持続させられるのは並大抵のことではないと思うのだ。誰もがノーベル賞を取れる訳ではない、イチローになれる訳でもない。壁にぶつかったときに、どこかで「自分の限界はここなのかも」と思い、「これでいいんじゃないの。私にはブールのある邸宅もあるし、そこには美女もいる」と思うときがあるだろう。でもそこには自分へのごまかしがある。低レベルの力を身に付けていなければはやくその限界に達してしまうのではないか、と思うのだ。ここで注意していただきたいのは、低いレベルで限界が来る、といっている訳ではなく、早く限界が来るということを言っています。はやいうちに自分で成長を止めてしまうのではないか、そしてその後満足できない人生を送るのだ (一度挫折したら二度と成長できない訳ではない。ここはわざと極端なことを言っています)。
はりーさんとの考え方の違い (別に同じでなければならないと思っている訳ではありません) のひとつに、この意志の力への信頼の大きさがあると思う。
成長の意志があってそれから力をつけていくのでも、生きる力をつけたら成長の意欲が生まれるのではない。少しずつ力をつけ、自信を得て、次の目標が出てくるし見えてくる。逆にいうと大きな目標を持っていても、まずは小さな目標を目指すようにして、小さな満足を積み重ねて行く、そういうスパイラルアップ (正しい使い方じゃないかも) が必要と思うのだ。
そう進めていっても、誰でもイチローになれるわけではないというのは変わらない。どこかで限界を感じるとしたら、最初に設定した目標にどうやっても自分が達しないことが分かったら何に満足して生きて行けば良いのか。それは、「努力を止めない自分」、「成長を続ける自分」にだ。そしてそれははりーさんが指摘されるようにプロセスであり、目標に達していない段階でも常に得ることのできる満足なのだ。まあこれは「成長」を価値観においた場合の話であって、それ以外の価値観も当然あるのだが。
はりーさんとの認識の違いがもうひとつあるかも、と思っています。ちゃんと書いていませんでしたし、大前研一を引用したので誤解を招いているかもしれないのですが、私が「生きる力」というときに、それはすごく低レベルのことを想定しています。低レベルのことを含んでいるといったほうがいいかな。自分で切符を買って電車に乗って行きたいところへ行く、安いところを探して買い物をする、だまされない、流されない、正しいことを正しいと主張する、生活に自分なりの楽しみを見いだす、挫折から立ち直る、...
こういう力は金持ちかどうかにはあまり関係がないのは確かだろう。そういう意味で「ハングリー精神」に言及したのは適切でなかった。だが、モノだけでなく、だまされないように挫折しないようにするお膳立てなど、これらを全て与えていては「生きる力」は育たないだろう。
今日はここまで。これじゃ社会レベルの話ができるのはいつになるか分からないですね。
さて、はりーさんの「親の成長(しつこいけど)」のコメントで、私は、「人それぞれって個人レベルに落したくないという思いもあって、また考えをまとめたいと思います。ちょっと待ってね。」と書きました。相当待たせました。まだ自分で満足いく答えを出せていないですが、それを待っていてはいつになるか分からないので、少しずつ出して行こうと思います。
再スタートの地点は、その前の「成長欲求その4」のはりーさんの「コミットメント」という言葉と私がコメントで書いた「意志」あたりになります。「意志」、「決意」、「コミットメント」、「自分自身との契約」。これが、成長欲求を満足させる原動力になる。それまで、「経験」、「力」を養ってきていなくても、やるしかない、自分が決めたことなら。
ということに関しては同意する。
同意している、しかし、やっぱり意志の力を持続させられるのは並大抵のことではないと思うのだ。誰もがノーベル賞を取れる訳ではない、イチローになれる訳でもない。壁にぶつかったときに、どこかで「自分の限界はここなのかも」と思い、「これでいいんじゃないの。私にはブールのある邸宅もあるし、そこには美女もいる」と思うときがあるだろう。でもそこには自分へのごまかしがある。低レベルの力を身に付けていなければはやくその限界に達してしまうのではないか、と思うのだ。ここで注意していただきたいのは、低いレベルで限界が来る、といっている訳ではなく、早く限界が来るということを言っています。はやいうちに自分で成長を止めてしまうのではないか、そしてその後満足できない人生を送るのだ (一度挫折したら二度と成長できない訳ではない。ここはわざと極端なことを言っています)。
はりーさんとの考え方の違い (別に同じでなければならないと思っている訳ではありません) のひとつに、この意志の力への信頼の大きさがあると思う。
成長の意志があってそれから力をつけていくのでも、生きる力をつけたら成長の意欲が生まれるのではない。少しずつ力をつけ、自信を得て、次の目標が出てくるし見えてくる。逆にいうと大きな目標を持っていても、まずは小さな目標を目指すようにして、小さな満足を積み重ねて行く、そういうスパイラルアップ (正しい使い方じゃないかも) が必要と思うのだ。
そう進めていっても、誰でもイチローになれるわけではないというのは変わらない。どこかで限界を感じるとしたら、最初に設定した目標にどうやっても自分が達しないことが分かったら何に満足して生きて行けば良いのか。それは、「努力を止めない自分」、「成長を続ける自分」にだ。そしてそれははりーさんが指摘されるようにプロセスであり、目標に達していない段階でも常に得ることのできる満足なのだ。まあこれは「成長」を価値観においた場合の話であって、それ以外の価値観も当然あるのだが。
はりーさんとの認識の違いがもうひとつあるかも、と思っています。ちゃんと書いていませんでしたし、大前研一を引用したので誤解を招いているかもしれないのですが、私が「生きる力」というときに、それはすごく低レベルのことを想定しています。低レベルのことを含んでいるといったほうがいいかな。自分で切符を買って電車に乗って行きたいところへ行く、安いところを探して買い物をする、だまされない、流されない、正しいことを正しいと主張する、生活に自分なりの楽しみを見いだす、挫折から立ち直る、...
こういう力は金持ちかどうかにはあまり関係がないのは確かだろう。そういう意味で「ハングリー精神」に言及したのは適切でなかった。だが、モノだけでなく、だまされないように挫折しないようにするお膳立てなど、これらを全て与えていては「生きる力」は育たないだろう。
今日はここまで。これじゃ社会レベルの話ができるのはいつになるか分からないですね。
2005/01/25
2005/01/22
朝日のトンデモなさ加減に惑わされるな
こんばんは。久米宏です (ウソ)。
連日続くこの問題では、みなさんのブログ等 (浮世風呂さんの一連の記事、Tomorrow's Wayさん、ほか) をみていました。それらの情報から、私には、朝日の偏向ぶりとトンデモなさが目立ち、NHKの言っていることは正しいようにおもえていました。 取材を受けたNHK幹部が言ったことと反対のことを書かれたと言うのに対する反論も、証拠や根拠をしめす訳でなく、「だってそう言ったもん」というレベル。シバレイさんが、VAWW-NETの弁明を転載されていますが、私にはますますこの「裁判」の異常さと、それを何の批判も無く放送した場合の影響が憂慮されるものでしかありません。NHKは、もっと、「公正さを保つために自主的に手直しを指示しました」と言えば良いのではないか、と上記浮世風呂さんの記事にコメントも残しました。
しかし、日日光進さんの下記の記事をみて私ちょっと反省しています。
慰安婦を巡る朝日対NHK
この中で、毎日新聞2005年1月21日の社説「NHK特集番組 問題点を整理する必要がある」が紹介されていますが、ここでは、問題を整理し、
・ NHKに対し安倍氏らの政治圧力、介入が本当にあったのかどうか。
・ 番組の内容そのものに問題はなかったのか。
を分けて考えるべき、という提言がのべられています。そして、前者に関しては、番組放送前に内容を政府政治家に説明することの是非を問うています。
表題「朝日のトンデモなさ加減に惑わされるな」は自戒の念をこめてつけています。朝日対NHKどっちが正しいことを言っているという見方をするのではなく、どっちもジャーナリストとしていかがなものかという視点で批判精神を持ってみないといけないのだと思いました。
もう一度浮世風呂さんの記事にもどりますが、浮世風呂さんご本人のコメントで、「朝日、週刊新潮の広告掲載拒否」というのがありました。ちょっと前に読売新聞でも広告の一部を消して載せると言うことがありましたね。お互いジャーナリストとして、相手の言論の自由を尊重しないと、自分の首をしめることになるでしょう。今こそ、Tomorrow's Wayさんのサイドバーに掲げられている言葉「吾、汝の言に反対す。されど吾、汝の、その言を言うの権利、死に至るまで擁護せん」を噛み締めて欲しいものです。
連日続くこの問題では、みなさんのブログ等 (浮世風呂さんの一連の記事、Tomorrow's Wayさん、ほか) をみていました。それらの情報から、私には、朝日の偏向ぶりとトンデモなさが目立ち、NHKの言っていることは正しいようにおもえていました。 取材を受けたNHK幹部が言ったことと反対のことを書かれたと言うのに対する反論も、証拠や根拠をしめす訳でなく、「だってそう言ったもん」というレベル。シバレイさんが、VAWW-NETの弁明を転載されていますが、私にはますますこの「裁判」の異常さと、それを何の批判も無く放送した場合の影響が憂慮されるものでしかありません。NHKは、もっと、「公正さを保つために自主的に手直しを指示しました」と言えば良いのではないか、と上記浮世風呂さんの記事にコメントも残しました。
しかし、日日光進さんの下記の記事をみて私ちょっと反省しています。
慰安婦を巡る朝日対NHK
この中で、毎日新聞2005年1月21日の社説「NHK特集番組 問題点を整理する必要がある」が紹介されていますが、ここでは、問題を整理し、
・ NHKに対し安倍氏らの政治圧力、介入が本当にあったのかどうか。
・ 番組の内容そのものに問題はなかったのか。
を分けて考えるべき、という提言がのべられています。そして、前者に関しては、番組放送前に内容を政府政治家に説明することの是非を問うています。
表題「朝日のトンデモなさ加減に惑わされるな」は自戒の念をこめてつけています。朝日対NHKどっちが正しいことを言っているという見方をするのではなく、どっちもジャーナリストとしていかがなものかという視点で批判精神を持ってみないといけないのだと思いました。
もう一度浮世風呂さんの記事にもどりますが、浮世風呂さんご本人のコメントで、「朝日、週刊新潮の広告掲載拒否」というのがありました。ちょっと前に読売新聞でも広告の一部を消して載せると言うことがありましたね。お互いジャーナリストとして、相手の言論の自由を尊重しないと、自分の首をしめることになるでしょう。今こそ、Tomorrow's Wayさんのサイドバーに掲げられている言葉「吾、汝の言に反対す。されど吾、汝の、その言を言うの権利、死に至るまで擁護せん」を噛み締めて欲しいものです。
2005/01/21
ブッシュ2期め
こんばんは。近藤里沙です (誰だそれ)。
昨日の晩からブッシュ2期めの就任式典の話題がよく出ていましたね。
お金使い過ぎ、イラクやインドネシアの復興に使え、とか
圧政をなくすため、とか言うんだったらイラクから出て行け、とか
ネクタイの色が水色なのは国際協調を重視している表れ、ってそんなことないだろ、とか、
今度は無線でなくて直接指示された言葉で宣誓してるのね、とか。
(最後のほうは私が言ってるだけです。)
その中でおかしかったのは、パロディムービー。
↓ ここにあります(Second Termから入れます)。
http://www.jibjab.com/originals/second_term (歌詞はここ)
ただ批判するために作ったのかと思ったら、$2.99でダウンロード販売もしているのね。肖像権等で訴えられないのかしら。
瀬戸智子さんも指摘されていますが、世界中の首脳が登場してるのに、小泉さんは出てないらしい。小泉さんも「湾岸戦争の轍を踏まないため頑張って支援したのに...」って思ってるのでしょうか (笑い)。
追記: 以前のパロディムービー"This Land" (上記サイトで見ることができます) では著作権の使用で問題を起こしていたそうです。
「ブッシュ対ケリーの喧嘩を描く大人気パロディー作品に、思わぬ落とし穴」(Wired News 2004年7月29日)
「ブッシュ対ケリーのパロディーアニメ、楽曲の公正使用権を主張して法廷へ提訴」 (Wired News 2004年8月5日)
昨日の晩からブッシュ2期めの就任式典の話題がよく出ていましたね。
お金使い過ぎ、イラクやインドネシアの復興に使え、とか
圧政をなくすため、とか言うんだったらイラクから出て行け、とか
ネクタイの色が水色なのは国際協調を重視している表れ、ってそんなことないだろ、とか、
今度は無線でなくて直接指示された言葉で宣誓してるのね、とか。
(最後のほうは私が言ってるだけです。)
その中でおかしかったのは、パロディムービー。
↓ ここにあります(Second Termから入れます)。
http://www.jibjab.com/originals/second_term (歌詞はここ)
ただ批判するために作ったのかと思ったら、$2.99でダウンロード販売もしているのね。肖像権等で訴えられないのかしら。
瀬戸智子さんも指摘されていますが、世界中の首脳が登場してるのに、小泉さんは出てないらしい。小泉さんも「湾岸戦争の轍を踏まないため頑張って支援したのに...」って思ってるのでしょうか (笑い)。
追記: 以前のパロディムービー"This Land" (上記サイトで見ることができます) では著作権の使用で問題を起こしていたそうです。
「ブッシュ対ケリーの喧嘩を描く大人気パロディー作品に、思わぬ落とし穴」(Wired News 2004年7月29日)
「ブッシュ対ケリーのパロディーアニメ、楽曲の公正使用権を主張して法廷へ提訴」 (Wired News 2004年8月5日)
冬は鍋!
こんばんは。なべおさみです (ウソ、しかしベタベタやな)。
日経BPの健康サイトにこんな記事が...
冬太り予防の“鍋”はスープが決め手
冬は鍋ですよね。週1回鍋をするとして、これで3週間分の鍋メニューが決まったな。
でもここで問題が...
ここで紹介されているメニュー、特に最後のやつなんか、1回で作ってテーブルに出すことが前提になっているような。うちはそれでは足りませんから! 食べながら食材をどんどんほおり込んで行かないと。しゃぶしゃぶじゃないですが豆乳鍋もやったことはあるのですが、最後は豆乳といえない状態になってますから!
もうひとつ。「野菜は長い時間煮込まないように注意」ってあるんですが、白菜なんか十分火が通ってとろとろになったやつが甘くておいしいんじゃないですか。
最後に、鍋はおいしすぎてついつい食べ過ぎちゃいますから! 「冬太り予防」って無理! きっぱり。
夏やせせず、秋に太って、冬に太って、って、切腹!
開腹! っていうなー。
日経BPの健康サイトにこんな記事が...
冬太り予防の“鍋”はスープが決め手
冬は鍋ですよね。週1回鍋をするとして、これで3週間分の鍋メニューが決まったな。
でもここで問題が...
ここで紹介されているメニュー、特に最後のやつなんか、1回で作ってテーブルに出すことが前提になっているような。うちはそれでは足りませんから! 食べながら食材をどんどんほおり込んで行かないと。しゃぶしゃぶじゃないですが豆乳鍋もやったことはあるのですが、最後は豆乳といえない状態になってますから!
もうひとつ。「野菜は長い時間煮込まないように注意」ってあるんですが、白菜なんか十分火が通ってとろとろになったやつが甘くておいしいんじゃないですか。
最後に、鍋はおいしすぎてついつい食べ過ぎちゃいますから! 「冬太り予防」って無理! きっぱり。
夏やせせず、秋に太って、冬に太って、って、切腹!
開腹! っていうなー。
2005/01/18
はてなアンテナあんたは何点?
こんばんは。イッパイアッテナです (ウソ)。
designcafeさんの「悩みますね」にトラックバックしています。
情報処理学会誌の「インターネット向上委員会」という連載で、「Webページのチェックを効率的に - アンテナ、RSS -」という記事がありました。
RSSは分かるけど、「アンテナ」って初耳。ということではてなアンテナへ行ってみました。サンプルページを見ましたが、うーん微妙。サイトの更新順に並ぶのですが、RSSリーダー (glucoseやgoo RSSリーダーなど) と違って記事単位にならないようですね。また、カテゴリで分類もできないみたいだし。RSSのないところも更新が分かるという利点はありそうですが。
MyBlogListも使ってみたんですが、これもどうも使いにくい感じがします。これもブログごとの最新記事が示されるようで、複数の記事が更新されている場合に、最新の記事に興味がなければ前の記事を見逃しそう。
使い方で勘違いがあったらご指摘下さい。
あ、それからアクセス解析も入れることを検討したんですが、これってサーバに負担をかけたりしないのでしょうか。ただでさえ、エキサイトブログ遅くなっているのにと思って躊躇しています。
補足: 「世祓い」のはりーさんが、関連ツールをサーベイされています。「これで決まり」という推薦もあります。→「更新チェックツール」
さらに、「テクノラティ」というブログ検索サービスの紹介と考察もあります。→「テクノラティ」
designcafeさんの「悩みますね」にトラックバックしています。
情報処理学会誌の「インターネット向上委員会」という連載で、「Webページのチェックを効率的に - アンテナ、RSS -」という記事がありました。
RSSは分かるけど、「アンテナ」って初耳。ということではてなアンテナへ行ってみました。サンプルページを見ましたが、うーん微妙。サイトの更新順に並ぶのですが、RSSリーダー (glucoseやgoo RSSリーダーなど) と違って記事単位にならないようですね。また、カテゴリで分類もできないみたいだし。RSSのないところも更新が分かるという利点はありそうですが。
MyBlogListも使ってみたんですが、これもどうも使いにくい感じがします。これもブログごとの最新記事が示されるようで、複数の記事が更新されている場合に、最新の記事に興味がなければ前の記事を見逃しそう。
使い方で勘違いがあったらご指摘下さい。
あ、それからアクセス解析も入れることを検討したんですが、これってサーバに負担をかけたりしないのでしょうか。ただでさえ、エキサイトブログ遅くなっているのにと思って躊躇しています。
補足: 「世祓い」のはりーさんが、関連ツールをサーベイされています。「これで決まり」という推薦もあります。→「更新チェックツール」
さらに、「テクノラティ」というブログ検索サービスの紹介と考察もあります。→「テクノラティ」
1月17日
過ぎちゃいましたね。
今日は私は淡々と書きます。
多くの関西在住のブロガーの皆さんが被災状況を伝えてくれています。関西には親戚で被災した人はいるのですが、幸い亡くなった人や大きなけがをした人はいませんでした。被災者の皆さんの心情が分かっていないところがあると思いますが、ご容赦下さい。
その頃私は横浜に住んでいました。あの朝起きてテレビをつけたら、関西で大きな地震が起こったらしいといっていました。まず感じたのは、なにかの間違いじゃ、ということでした。地震が起こったらテレビですぐに各地の震度が出るのが普通だったので、「らしい」って何だろうと思ったのでした。情報を伝えることもできないくらいの被害だったんですね。また、「関西に地震はない」と言われていたので、そのような準備もできていなかったんですね。
朝の段階ではニュースも混乱していて、被害の大きさがなかなか伝わってきませんでした。普通に出社して、途中に情報もはいっていたと思うのですが、事の重大さを実感したのは帰宅してからのように思います。
その後も日が経つにつれ被害の大きさが分かってきました。こんなときやはり感じたのは、お金を送る事くらいしかできないもどかしさでした。
海外のメディアが、暴動等起こっていないことを驚きの目で伝えていましたね。自分がほめられた訳ではないのですが、誇らしいと思うと同時に、日本人の自制心、いざと言う時の強さを神戸の人たちが証明してくれたようでありがたいと思いました。時代が違うのですが、関東大震災の時のような民族差別も起こりませんでした。テレビでは、神戸は昔から国際都市で多民族が融和して生きてきたと解説していました。東京ではこうはいかないだろうともいっていましたが、仮定の話になるのでそうかもしれないと思うほかありませんでした。
以前も書きましたが、田中康夫氏(現長野県知事)が、女性用下着だったか生理用品だっかをバイクで配って回っていると雑誌の連載で書いていました。被災地で必要なものは何かということに関して、それまでの災害ではあまり話題にあがらなかったように思います。それを気付かせてくれた点でも田中氏の行動は評価されるべきものと思います。今回の新潟中越地震では「被災地に必要なもの」ということがかなり認識されていたようにおもいます。それでもカップラーメンだけあってお湯がないとか、その一方でなまものがだめになったということもあったようですが。
これはだいぶ後になりますが、仮設住宅への移行はなかなかすすまなかったときいています。仮設住宅が遠く不便という意見が多かったようです。2年後くらいに神戸の六甲山の北側の新興住宅地に行ったことがあるのですが、そこの公園に仮設住宅が建てられていました。確かに神戸の中心地までは遠いかもしれないが、ここから毎日通勤している人もいるのに、こんな遠いところなんていうのは失礼じゃないかと思いました。慣れ親しんだ土地や友人と離れるということは理解できますが、会おうと思えばいつでも会える距離なんですから。
地震保険にはいっていない人が多かったことも問題としてあげられていました。後で知ったのですが、地震保険は掛け金が高く、また火災保険の特約としてはいるのですが、火災保険の1/3しか補償されません。入るのをためらってしまいます。
ここ数日のテレビや新聞で、改めて被害の大きさを再認識しています。被害の大きさ、亡くなった人の多さよりも、今後を強く生きて行こうとする人々の底力に感動をおぼえます。難病の子が書いた「生きる力」という習字を見たら涙がでそうになりました。これからを築いて行く若い人の意志に対しては涙腺が緩む傾向にあるようです。歳をとったということか。
「生きる力」... あ、宿題忘れてた。
今日は私は淡々と書きます。
多くの関西在住のブロガーの皆さんが被災状況を伝えてくれています。関西には親戚で被災した人はいるのですが、幸い亡くなった人や大きなけがをした人はいませんでした。被災者の皆さんの心情が分かっていないところがあると思いますが、ご容赦下さい。
その頃私は横浜に住んでいました。あの朝起きてテレビをつけたら、関西で大きな地震が起こったらしいといっていました。まず感じたのは、なにかの間違いじゃ、ということでした。地震が起こったらテレビですぐに各地の震度が出るのが普通だったので、「らしい」って何だろうと思ったのでした。情報を伝えることもできないくらいの被害だったんですね。また、「関西に地震はない」と言われていたので、そのような準備もできていなかったんですね。
朝の段階ではニュースも混乱していて、被害の大きさがなかなか伝わってきませんでした。普通に出社して、途中に情報もはいっていたと思うのですが、事の重大さを実感したのは帰宅してからのように思います。
その後も日が経つにつれ被害の大きさが分かってきました。こんなときやはり感じたのは、お金を送る事くらいしかできないもどかしさでした。
海外のメディアが、暴動等起こっていないことを驚きの目で伝えていましたね。自分がほめられた訳ではないのですが、誇らしいと思うと同時に、日本人の自制心、いざと言う時の強さを神戸の人たちが証明してくれたようでありがたいと思いました。時代が違うのですが、関東大震災の時のような民族差別も起こりませんでした。テレビでは、神戸は昔から国際都市で多民族が融和して生きてきたと解説していました。東京ではこうはいかないだろうともいっていましたが、仮定の話になるのでそうかもしれないと思うほかありませんでした。
以前も書きましたが、田中康夫氏(現長野県知事)が、女性用下着だったか生理用品だっかをバイクで配って回っていると雑誌の連載で書いていました。被災地で必要なものは何かということに関して、それまでの災害ではあまり話題にあがらなかったように思います。それを気付かせてくれた点でも田中氏の行動は評価されるべきものと思います。今回の新潟中越地震では「被災地に必要なもの」ということがかなり認識されていたようにおもいます。それでもカップラーメンだけあってお湯がないとか、その一方でなまものがだめになったということもあったようですが。
これはだいぶ後になりますが、仮設住宅への移行はなかなかすすまなかったときいています。仮設住宅が遠く不便という意見が多かったようです。2年後くらいに神戸の六甲山の北側の新興住宅地に行ったことがあるのですが、そこの公園に仮設住宅が建てられていました。確かに神戸の中心地までは遠いかもしれないが、ここから毎日通勤している人もいるのに、こんな遠いところなんていうのは失礼じゃないかと思いました。慣れ親しんだ土地や友人と離れるということは理解できますが、会おうと思えばいつでも会える距離なんですから。
地震保険にはいっていない人が多かったことも問題としてあげられていました。後で知ったのですが、地震保険は掛け金が高く、また火災保険の特約としてはいるのですが、火災保険の1/3しか補償されません。入るのをためらってしまいます。
ここ数日のテレビや新聞で、改めて被害の大きさを再認識しています。被害の大きさ、亡くなった人の多さよりも、今後を強く生きて行こうとする人々の底力に感動をおぼえます。難病の子が書いた「生きる力」という習字を見たら涙がでそうになりました。これからを築いて行く若い人の意志に対しては涙腺が緩む傾向にあるようです。歳をとったということか。
「生きる力」... あ、宿題忘れてた。
2005/01/15
杉田かおるさん結婚おめでとう
こんばんは。酒井 順子です (ウソ)。
杉田かおるさんが電撃結婚だそうですね。紀宮さまのときよりもなんかほのぼのしちゃいます。
今朝の情報番組では、結婚後も仕事を続けるという本人のコメントが紹介されていましたが、同じようなキャラでは使えないと思うぞ、って心配してやる必要もないんですけどね。貴理子も生き残ってるからなんとかなるのか。
今度は中森明菜に幸せになってもらいたいです。
杉田かおるさんが電撃結婚だそうですね。紀宮さまのときよりもなんかほのぼのしちゃいます。
今朝の情報番組では、結婚後も仕事を続けるという本人のコメントが紹介されていましたが、同じようなキャラでは使えないと思うぞ、って心配してやる必要もないんですけどね。貴理子も生き残ってるからなんとかなるのか。
今度は中森明菜に幸せになってもらいたいです。
青色LED特許裁判和解
こんばんは。ドクター中松です (ウソ)。
もう既に多くのブロガーの方が記事に書かれていますが(トラックバックは最後にまとめます)、中村修二氏と日亜化学工業の間で和解が成立しましたね。私もずっと日経エレクトロニクスの記事等読んでいましたが、日経BP社がこれまでの記事をまとめたサイトをオープンしました。双方の立場からの主張が載せてあります。事実関係は明らかにならないところも多いのですが。
スペシャルレポート 中村裁判
(リンク先には会員登録(無料)が必要なところもあります)
いくつか感想を。
・ まず、和解しておいて裁判所に不満をいうのは見苦しい (誰かも言及されていたと思うのですが見つからない...補足: 小言日記さんでした。失礼しました)。
・ サインするときにその意味、もたらす結果を把握していない (僕が会社を訴えたわけ) のは大人の態度じゃない。ソフトウェアをダウンロードしたり何かの会員になるときには、利用規約を読んでAcceptボタンを押すよね(すごいスピードで読むけど)。
・ 6億円 (遅延損害金を加えて8億4000万円) でも、十分技術者に希望を与える額だと思う。
・ ビジネスの成功/失敗が分かった段階での「貢献度」は算出は難しい。本来は価格設定にライセンスのコストが勘案されるべきなので、あらかじめ契約をするもの。契約によってどちらもリスクをとる (安く技術を売っちゃうリスク、ライセンス料が高くてコストにはねかえり結果的に売れず双方が損するリスク等)。
・ とはいえ、発明した後に社員側に譲渡しない選択肢はない。譲渡しなければ特許は出せず双方の損失になる。結局契約は発明前に行われるべき (今度改正される?された?特許法ではそうなる)。
・ 発明を行っている時間も給料を貰っている、発明という業務を行うための報酬は支払っているという「職務発明」という概念はある程度理解できる。
・ しかし、発明で得られた利益を全く発明者に還元しないというのでは、良い技術者は集まらないだろう。また、既に社員になっている人にとっても、良い特許を書くモチベーションにならない。
今後技術者は今まで以上に自分の価値、自分がこれから生み出す価値について客観的な評価が必要になるでしょう。現在は労働市場の流動性はまだ高いとは言えませんが、将来流動性が高くなって行けば、自分を適切に評価してくれるところを探すという傾向が出てくるでしょう。それは逆に価値の低い技術者は会社にいられないということも意味しています。これは自戒でもありますが、常に価値を高めて行く努力が必要になると思います。
トラックバック先
■ dragon2011さん: どっちもどっちかはたまた。青色LED訴訟
■ night_in_tunisiaさん: 青色発光ダイオード訴訟和解の件
■ 瀬戸智子さん: 青色青光
■ 小言日記さん: 怒り
もう既に多くのブロガーの方が記事に書かれていますが(トラックバックは最後にまとめます)、中村修二氏と日亜化学工業の間で和解が成立しましたね。私もずっと日経エレクトロニクスの記事等読んでいましたが、日経BP社がこれまでの記事をまとめたサイトをオープンしました。双方の立場からの主張が載せてあります。事実関係は明らかにならないところも多いのですが。
スペシャルレポート 中村裁判
(リンク先には会員登録(無料)が必要なところもあります)
いくつか感想を。
・ まず、和解しておいて裁判所に不満をいうのは見苦しい (誰かも言及されていたと思うのですが見つからない...補足: 小言日記さんでした。失礼しました)。
・ サインするときにその意味、もたらす結果を把握していない (僕が会社を訴えたわけ) のは大人の態度じゃない。ソフトウェアをダウンロードしたり何かの会員になるときには、利用規約を読んでAcceptボタンを押すよね(すごいスピードで読むけど)。
・ 6億円 (遅延損害金を加えて8億4000万円) でも、十分技術者に希望を与える額だと思う。
・ ビジネスの成功/失敗が分かった段階での「貢献度」は算出は難しい。本来は価格設定にライセンスのコストが勘案されるべきなので、あらかじめ契約をするもの。契約によってどちらもリスクをとる (安く技術を売っちゃうリスク、ライセンス料が高くてコストにはねかえり結果的に売れず双方が損するリスク等)。
・ とはいえ、発明した後に社員側に譲渡しない選択肢はない。譲渡しなければ特許は出せず双方の損失になる。結局契約は発明前に行われるべき (今度改正される?された?特許法ではそうなる)。
・ 発明を行っている時間も給料を貰っている、発明という業務を行うための報酬は支払っているという「職務発明」という概念はある程度理解できる。
・ しかし、発明で得られた利益を全く発明者に還元しないというのでは、良い技術者は集まらないだろう。また、既に社員になっている人にとっても、良い特許を書くモチベーションにならない。
今後技術者は今まで以上に自分の価値、自分がこれから生み出す価値について客観的な評価が必要になるでしょう。現在は労働市場の流動性はまだ高いとは言えませんが、将来流動性が高くなって行けば、自分を適切に評価してくれるところを探すという傾向が出てくるでしょう。それは逆に価値の低い技術者は会社にいられないということも意味しています。これは自戒でもありますが、常に価値を高めて行く努力が必要になると思います。
トラックバック先
■ dragon2011さん: どっちもどっちかはたまた。青色LED訴訟
■ night_in_tunisiaさん: 青色発光ダイオード訴訟和解の件
■ 瀬戸智子さん: 青色青光
■ 小言日記さん: 怒り
2005/01/10
文句をいうなら汚したほうへ言え
こんにちは。杉原千畝です (ウソ)。
こんなニュースがありました。
毎日新聞1月10日 (リンクはYahoo!ニュース)
少林寺拳法 「卍」紋章を変更 香川・多度津の本部
(新しいマークは少林寺拳法オフィシャルホームページからリンクをたどって見て下さい。今のマークも出ています。)
ユダヤ民族の諸君へ。ハーケンクロイツを連想するのは分かるが、文句は卍を穢したドイツ民族に言え。
ドイツ民族の諸君へ。私達が卍を穢しました、ごめんなさい、卍に罪はありません、我々が悪の象徴とするために卍を「裏返して」使いました (補足: design-lifeさんのコメントにありますが、逆卍ももともとあって、いい意味をもっているそうですね)、って全世界に発信しろ。毎年各国の主要紙に全面広告をだせ。ユダヤ民族が納得するまでだ。ドイツ民族にはもっといいたいことがあるが、人道的見地から控えておきます。
少林寺拳法グループの皆さんへ。卍は君たちだけのものじゃない。君たちが折れたら卍全部が使えなくなるまでいわれなき批難が続く。猪木だって必殺技が封印されたら困るだろ。使ってきたんだったら最後までちゃんと主張しろ。「世界中に少林寺拳法の普及」なんて利己的な理由と天秤にかけるな。
記号をけがすな。記号に罪をおしつけるな。卍がハーケンクロイツを連想させるというのなら、世界には虐殺や侵略のシンボルそのものといえるものがたくさんある。ダビデの星はパレスチナ侵略虐殺の象徴だ、十字架も中東と中東までの経路に対する侵略と略奪を行った十字軍の象徴だ、二度と使うな、と言われたら皆さんどーする?
補足: 日の丸もずっと昔から使っているものだ。侵略戦争のシンボルだから使うなと言う論調はおかしいだろ。
たとえアラファト議長が許してもこのuedaが許しません。
コメント
Commented by n_ayada at 2005-01-10 15:53 x
>ダビデの星はパレスチナ侵略虐殺の象徴だ、十字架も中東と中東までの経路に対する侵略と略奪を行った十字軍の象徴だ
このへんの歴史認識は、もっとしっかりする必要がありますよね。私も含めて、勉強しましょう。
Commented by night_in_tunisia at 2005-01-10 17:05 x
イスラム圏の人にしてみたら十字架は侵略のシンボルなんじゃないかなー。いや、よく知らないけど。僕はうえださんに賛成。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-10 20:36 x
★n_ayadaさん、勉強するのはやぶさかでないのですが、どう勉強したらよいのでしょうね。
一部だけ切り取られて引用されると誤解を受ける可能性がありますが、私ダビデの星や十字架を使うなという論調に与していません。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-10 20:36 x
★night_in_tunisiaさん、コメントありがとうございます。自分の見方が全てではない、自分の価値観だけで他者を否定するなということを言っています。もちろん、人命、人権、愛など人間に共通する価値観はあるべきだと思いますが。
Commented by fumi_o at 2005-01-10 23:45 x
お久し振りです♪
全然話は違いますが、青森県弘前市の銘菓に
#卍最中(まんじもなか)
というのがあります。:-)
こちらのサイトで確認できますよ。↓
http://ajiwai.or.jp/ajiwai_data/no146/page_02/page_02_data.html
Commented by n_ayada at 2005-01-11 00:54 x
私の文章力が無いばかりに、言いたかったことと反対の意味に受け取られたようです。この記事には賛意を示したつもりだったんです。
反省・・・・・
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-11 04:12 x
★fumi_oさん、いらっしゃいませ。コメントしていませんが私も継続して拝見しています。卍って弘前市の市章でもあるんですね。で、弘前市のホームページも見てみましたが、宗教的な意味はもたせてないんですね(弘前市のホームページの「市政」の下に「市議会」や「産業」と同じレベル、しかも「産業」の前に「りんご」ってあって微笑ましい)。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-11 04:17 x
★n_ayadaさん、真意を誤解して申し訳ありません。あの部分はわざと挑発的に書いて、自分でもぴりぴりしていたので、あの部分だけ取り出されると誤解を受けたかと思いました。
賛同いただけてありがたいです。
Commented by まきこ at 2005-01-11 19:20 x
にゃはは。おもしろい。
ハーケンクロイツは、ナチス党の党章だから、もしこれを誰かが使い出したら「おまえどういうつもりでそれ使ってるんだ」っていわれるのは当然ですよね?
日の丸は、大日本帝国の旗なわけじゃないからOK?
ってことは、大日本帝国の面々は、日本のみなさんに、「みなさんが親しんできた旗を侵略に使って、嫌われる旗にしてしまってごめんなさい」って謝って、侵略した国々には「みなさん、私たちはこの旗を使って侵略しましたが、これはもともと侵略のシンボルではありません」ってわかってもらうまで説明する必要があったってことになるのかな?
そうかもねー。でなきゃ、あの旗、使いにくいですよね。
ところで日の丸って、大日本帝国以前から日本の人たちに親しまれていたのかな。よくわかりません。
Commented by design-life at 2005-01-11 23:46 x
この記事確かに気になりました。デザインに身を置く者として、安易に謝罪して欲しくないものです。アメリカの友人とも話していたんですがユダヤの人々は、特に被害妄想が強いのかこの手の事(言い出したらキリがないし、同じような矛盾も秘めているのに)に神経質になっていますよね。マークを問いただすより、本質を問いただして欲しい。ちなみに卍ネタで言うとインドネシアの「スワルテチィカ」という逆卍の紋章(と言うかシンボル)があるのですが、それは幸福の象徴でもあるんです。たった一つの言いがかり(言い過ぎかもしれませんが)が諸民族の文化を犯すのはおかしいことです。。
Commented by hrcod at 2005-01-12 18:46 x
はじめまして。
記号の持つ力というか、与える影響にびっくりしました。自分を表す一つのツール、または象徴としての意味の上に、いろいろなものを背負って成り立っているものなのだなぁ、と感じました。それだけ影響のあるものとして、その対象としてデザイン(記号)は意味あるものだと痛感しました。しかし、その一方で「記号に罪を押しつけるな」という一節にはとても共感します。
それにしても、時には吐き捨てていたり、それでいて鋭い文章。こんなに爽やかに共感できたのは初めてです。思わずコメントしてしまいました。
Commented by smpinkd at 2005-01-12 22:49 x
はじめまして。色々と考えてしまいました。もっと勉強しなきゃ。
僕なんかは単純に世界的に広めたいのなら仕方ないんじゃないかと思ってました。少林寺拳法の関係者にしてみれば、グローバルに展開して、いずれは「オリンピック競技」になんてことの方が重要なんですよ。伝統よりも繁栄の道を選んだのですね。きっと。
この新しいマークが卍を超えるものだったら大拍手だったんですけどね。って話題が逸れてしまってますね。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-13 00:05 x
★たまごの距離のまきこさん、いらっしゃいませ。そんなにおもしろいですか?
私は「大日本帝国の面々」と日本民族を分けて考えていません。反戦を貫いた人もいるでしょうが、日本全体が戦争を歓迎または容認する空気になっていたのだと思いますので。といって批判するつもりもなく、ただ今後二度と過ちは繰り返しませんという決意につなげたいと思っています。
他国のシンボルをけがした訳ではないので、積極的に謝る必要はないと思いますが、日の丸が侵略のシンボルだと言われたら、そうではないことを根気づよく説明して行くしかないかと思います。もちろん多くの日本人がそこまでして日の丸にこだわる必要ないと思うのなら別なのですが、私は日の丸のデザインには愛着がある。色を3つ並べたデザインが多い中で、シンプルでユニーク、力強いデザインだと思う。鉢巻きに日の丸描いて「合格」なんて書けば勉強にも身が入るというものです。
話がそれました。日の丸の歴史は古いはずですが、どれだけ親しまれていたかに関しては分かりません。日の丸の歴史は国粋主義的な観点から書かれたものは多くみつかるのですが、客観的な記述を見つけることができません。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-13 00:16 x
★design-lifeひらさわさん、トラックバック+コメントありがとうございました。おかげさまで今日のアクセス倍増しており、とってもありがたいのだけれど、とってもコッパズカシイデス(ってすみません、PROP DESIGNさんの文章をパクってみました)。特にデザイン関係の人にとってはコンセプトから考えに考え抜いて作ったものに別の意味を与えられ、さらに謝罪すると言うことは相手の主張を認めることで受け入れがたいと思います。
おっしゃるとおりこれは「文化」であって、「文化」というのは「共有する価値観」のことです。それを否定するのが、一神教の宗教をもつ民族の不寛容性だと思います。
http://ryokan.exblog.jp/796210
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-13 00:30 x
★ hrcodさん、いらっしゃいませ。
言語は私のテーマの一つなんですが、言語も記号の一種で、同じような力を持っています。次の記事も関連していることを書いているので読んでいただくとありがたいです。うちの奥さんからはそんなかたいテーマで書いても誰も読んでくれないんじゃないのと言われているのですが。
http://ryokan.exblog.jp/1495261
それから、文章に関して過大な褒め言葉をいただきありがとうございます。てれるなあ。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-13 00:45 x
★smpinkdさん、いらっしゃいませ。
smpinkdさんもデザイン関係か建築関係なんですね。どちらにしろ新しいデザインを作る場合にはターゲットに響くだけでなく、多くの人に受けいれられるものにするのは重要だと思います。ただそのために伝統を犠牲にしてもらいたくないです。
Commented by 鍵 at 2005-01-14 13:50 x
Commented by あのう at 2005-01-14 19:08 x
>まきこさんは
みしるしもって戦争や紛争を人間は何千年やってたと思ってるんですか。
>ってことは、大日本帝国の面々は、日本のみなさんに、「みなさんが親>しんできた旗を侵略に使って、嫌われる旗にしてしまってごめんなさい」>って謝って
学校教科書受け売り程度の知識でよく言う。
中韓以外の国の当時の日本の対応とか国情しらべてみろ。
欧米的覇権侵略とまた違った側面がある。
インドネシアやフィリピン、台湾じゃ尊敬されてる日本人が沢山居た。
偶には相容れないかもしれんが対立側の情報も調べてみろ。
そんな浅はかな知識で国叩きなんぞ虫唾が走る。
Commented by 聞きかじり at 2005-01-14 22:37 x
卍や逆卍は単なる記号でなくて漢字のように意味をもった文字(凡字、チベット仏教の文字)じゃなかったっけ? 卍は「和」を意味し、逆卍は「力」を意味して双方を持たざれば人々を涅槃に導くことができないんじゃなかったっけ?卍からハーケンクロイツを連想するのは容易に想像できるが、言葉を尽くして説明したのかな?という気はしますね。残念です。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-14 22:40 x
★錠さん、「少林寺拳法がナチスより前」とは書いていません。「卍が(ナチスの)ハーケンクロイツより前」と書きました。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-14 23:22 x
★あのうさん、まきこさんは、「ということは」で始めているので、仮定を置いた場合の話をしていると思います。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-14 23:24 x
★聞きかじりさん、逆卍の存在は知りませんでした。ありがとうございます。「言葉を尽くして説明したのかな?という気はしますね。残念です。」という点は私も同意します。
Commented by SUSI at 2005-01-15 01:29 x
初めまして&既出だったらごめんなさい。
非常に不思議なんですけど、イスラエルはフィンランドやスウェーデンのルーセン伯爵家に文句をつけたことがあるのでしょうか? 青い逆卍(ハカリスティ)はルーセン家の幸福のシンボルであり、フィンランドは一時国章にしていました。さすがに紛らわしいので、1944年11月からは青十字を国章にしておりますけれども。現在でも、フィンランドにおいて青い逆卍はフリーパスです。
WW2時、NSDAPが意匠として使っていたのは45度右に傾けた逆卍で、正確には逆卍じゃないんですけどねえ。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-15 03:42 x
★SUSIさん、情報ありがとうございます。ルーセン伯爵家のことは初めて知りました。なにをもって反発されるのかよく分からなくなってきました。
Commented by かかしA at 2005-01-15 05:53 x
『ゴルゴ13”裏切りのスワスチカ”』にこのネタがありました。
ハーケンクロイツはオカルトに傾倒したナチスが、スワスチカというチベットの卍をデザイン化したもの、と説明してありました。
原因は来歴も知らずに嫌う人の方にあるのでしょうが、「一々、頭に血が上った人たちに対応するリスクを負うよりはいっそ変えちゃったほうが楽だ」というのも、まあもっともな考え方かなと思います。
もしどこかの団体のように「我々の勝利だ」などと宣伝に利用されたらたまったものではないでしょうが、今の所そういった話はないようですし。
しかし政治の尻拭いを、無関係な第三者がさせられるというのは、非常に苦々しい話ですね。
Commented by kotaro at 2005-01-15 07:25 x
少林寺拳法を少し習った者です。道着の左胸には卍の印がありました。級や段が上がっていくと,黒色卍が緑卍,赤卍,黄色卍などと替わっていくので,練習の励みにもなったものです。
少林寺拳法を学ぶとき,同時に教典を渡されました。中には,聖句,誓願,信条,道訓などが書いてありました。それらの教えの元に,鍛錬を積んだものです。自分のためと人のために。その内容は総本山のHPにもあります。ぜひ一読されたい。少林寺拳法は,自己確立と自他共楽のためにあるのです。
そのマークとしての卍が,理解なき怨恨によって変えられるというか,自己規制してしまわれるのが残念です。これには少林寺拳法総本山の開祖である故宋道臣先生も悲しんでおられるのではないでしょうか。
少林寺拳法を世界に広めるためには,その形だけ物理的にできていったってだめだというのは,やってる人間なら分かるはずです。卍マークも新しいマークと同様に広めていって,少林寺拳法がめざすものを文字通り説いていってほしいと願っています。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-15 11:17 x
★かかしAさん、コメントありがとうございます。逆卍の由来ですが、親衛隊の略称がSSでそれをデザイン化したものというのもありました。
http://www.ne.jp/asahi/mili/surva/dooberu/manzi.html
私は少林寺拳法グループにはもっと頑張ってほしかったのですが、民間団体に期待し過ぎなのかもしれませんね。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-15 11:23 x
★kotaroさん、コメントありがとうございます。少林寺拳法はそういう理念も重要視しているのですね。そういう理念を学んだ方にとっても、その理念まで曲解されているような無念さがあるのはとても理解できます。
Commented by newright at 2005-01-15 21:27 x
蒸し返すようですが日本の国旗が云々について・・・
ドイツが過去の過ちを悔いて逆卍を封印したことは相手の気持ちを慮った評価できる贖罪の方法ではあるでしょう。けれど一方の日本が戦中のシンボルでもあった日の丸を捨てなかったことはまるっきり過去から目を背けた開き直りなのでしょうか。
戦中の日本が何をしたとかしなかったとかいまさらな議論です。法的に裁かれ、賠償の責務もある程度果たしたはずのわたしたちがいまさら何を否定し、あるいは自らを貶める必要があるのでしょうか。
キリスト教の十字架はそもそも十字架に架けて神をその手で殺めてしまうという人間の犯した最大の罪を決して忘れないという意志によってシンボル化されたものです。
自らの過ちを認めて、それを繰り返さないために罪を背負っていくことは、そうした意思を保つ限りにおいて誇れる行為です。過去の罪をシンボルと一緒に捨て去って、わたしたちは変わりました、というほうがよっぽど楽なことだと思います。
ただそんなことをすっかり忘れて、旗についている汚れを躍起になって洗い流そうとするくらいなら、そんなものは捨てちゃったほうがいいですけどね。
Commented by 赤井報道 at 2005-01-16 10:47 x
昔、十字軍の遠征で侵略されたイスラム諸国では、赤十字の十字はタブーなので旗が違います。旗の図案は「剣を持った赤い猿の絵」です。
やはりタブーになるんでしょうな。
だがそれに過敏になり、他人に強制をするのもどうかと思う。
人が嫌うものをわざわざ誇示するのは単なる嫌がらせでしょうが、別に
自分が嫌いなのなら避ければいいだけ。また卍や逆卍を使う方も、十分な説明をして自分に意図的な非は無いと理解させればいい。
相手の立場を理解し、無意味な言葉狩りや記号狩りをすべきではないと思う。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-16 14:16 x
★newrightさん、コメントありがとうございます。おっしゃる通りだと思います。今後も平和を築いて行こうとする意志が重要ですよね。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-16 14:19 x
★赤井報道さん、イスラム世界における赤十字の扱いに関しては初めて知りました。ありがとうございます。
> 無意味な言葉狩りや記号狩りをすべきではない
私も同じ思いです。
Commented by KEN-NYE at 2005-01-26 15:02 x
赤十字は国際組織があって、その下に各国の組織がありますが、イスラム圏では十字を使わず「赤新月」になっていますね。「赤新月」の言葉はイラクのニュース等でお馴染みかと思いますが。
http://rcehime.parfe.jp/kokusai51.html
日の丸って美しいですよね。3歳児でも書けるし、遠くから見ても間違えようがない。「色の順番どうだっけ?」と悩むこともない。私の知識が間違っていなければ、元々貿易船だったか軍艦だったかが国籍を明確にするために使い始めたのがそのうち「国の旗」と認められるようになったもので、明治時代ぐらいからでしょう。意匠としては大昔からあるようです。
侵略戦争に対する非難を全身で受け止める日の丸も可哀相です。そろそろ、受けるべき人が非難を受け止めなければ?
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-27 01:19 x
★KEN-NYEさん、前のコメント通り、私はイスラム圏の赤十字のことは知らなかったのです。「赤新月」というのはKEN-NYEさんの情報で初めて知りました。ありがとうございます。日の丸は守って行きたいもののひとつですね。
Commented by 赤井報道 at 2005-03-08 00:47 x
日の丸はシンプルで、それでいて美しい。
明治時代、この日の丸を売って欲しいと言ってきた国もいるほどです。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/hinomaru.html
>遂にはフランス(泉欣七郎・千田健共編『日本なんでもはじめ』 注、安津素彦『国旗の歴史』によればイギリス)が、正式に政府代表を立てて明治新政府に対し、「日の丸を500万円(当時の金額)で我が国に売却して欲しい」と依頼してきたのです。
Commented by yoshihiroueda at 2005-03-08 02:59 x
★ 赤井さん、日の丸を売ってくれという依頼があったことははじめて知りました。教えていただきありがとうございます。売ってくれといわれるほどだと知ってますます誇らしくなりますね。また、売らなかった明治政府にも感謝したいと思います。
Commented by 23 at 2005-04-27 14:55 x
少林寺拳法は以前から外国では違うマークを使っていますた。今回の変更は団体内部の利権がらみではないかと言われれおり、怒っている少林寺拳士がたくさんいますよ。ちなみに、少林寺は中国の少林寺にパテント料みたいなものを貢いでいることでも有名ですが
Commented by yoshihiroueda at 2005-04-29 07:36 x
★23さん、情報ありがとうございます。23という名前のところは2ちゃんねる当該スレッドへのリンクなんですね。少林寺拳法と中国の少林寺は組織的なつながりはないとはいいながら、そういう関係(ロイヤルティ?)はあるんですね。
Commented by 昔習ってました at 2007-09-23 16:20 x
う~ん、やはり他の国に遠慮してマークを変えたというのはどう考えてもばかばかしい。
ホントウの理由があるがそれを公表できないのでもっともらしい理由をとってつけたと考えるのが良いのでは?23さんの言うように利権がらみってのが妥当なところでしょう。
中国の少林寺かどうかはわかりませんが、もっと俗っぽい個人もしくは団体に、「俺たちが権利もっているから使うなら金払え」って言われていたとか。
Commented by yoshihiroueda at 2007-09-23 23:49 x
★ 昔習っていた方、
昔の投稿にコメントをいただき少々驚いています。なにかあったかな?
他のスポーツが体育協会みたいな組織になっているのに対して、日本の少林寺は個人が立ち上げた組織のようですね。そういう意味で情報公開も十分でないのだと思います。単なる言い訳に使われたのだとしたらユダヤ団体の皆さんにも迷惑な話ですね。
こんなニュースがありました。
毎日新聞1月10日 (リンクはYahoo!ニュース)
少林寺拳法 「卍」紋章を変更 香川・多度津の本部
(新しいマークは少林寺拳法オフィシャルホームページからリンクをたどって見て下さい。今のマークも出ています。)
「卍」はナチスのかぎ十字(ハーケンクロイツ)を裏返した形になっているため、欧米のユダヤ人団体などから反発が続いていたって逆だろ。まんじが先にあって、ハーケンクロイツがそれを裏返しにしたものだ (補足: 成立は違うけどね)。
ユダヤ民族の諸君へ。ハーケンクロイツを連想するのは分かるが、文句は卍を穢したドイツ民族に言え。
ドイツ民族の諸君へ。私達が卍を穢しました、ごめんなさい、卍に罪はありません、我々が悪の象徴とするために卍を「裏返して」使いました (補足: design-lifeさんのコメントにありますが、逆卍ももともとあって、いい意味をもっているそうですね)、って全世界に発信しろ。毎年各国の主要紙に全面広告をだせ。ユダヤ民族が納得するまでだ。ドイツ民族にはもっといいたいことがあるが、人道的見地から控えておきます。
少林寺拳法グループの皆さんへ。卍は君たちだけのものじゃない。君たちが折れたら卍全部が使えなくなるまでいわれなき批難が続く。猪木だって必殺技が封印されたら困るだろ。使ってきたんだったら最後までちゃんと主張しろ。「世界中に少林寺拳法の普及」なんて利己的な理由と天秤にかけるな。
記号をけがすな。記号に罪をおしつけるな。卍がハーケンクロイツを連想させるというのなら、世界には虐殺や侵略のシンボルそのものといえるものがたくさんある。ダビデの星はパレスチナ侵略虐殺の象徴だ、十字架も中東と中東までの経路に対する侵略と略奪を行った十字軍の象徴だ、二度と使うな、と言われたら皆さんどーする?
補足: 日の丸もずっと昔から使っているものだ。侵略戦争のシンボルだから使うなと言う論調はおかしいだろ。
たとえアラファト議長が許してもこのuedaが許しません。
コメント
Commented by n_ayada at 2005-01-10 15:53 x
>ダビデの星はパレスチナ侵略虐殺の象徴だ、十字架も中東と中東までの経路に対する侵略と略奪を行った十字軍の象徴だ
このへんの歴史認識は、もっとしっかりする必要がありますよね。私も含めて、勉強しましょう。
Commented by night_in_tunisia at 2005-01-10 17:05 x
イスラム圏の人にしてみたら十字架は侵略のシンボルなんじゃないかなー。いや、よく知らないけど。僕はうえださんに賛成。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-10 20:36 x
★n_ayadaさん、勉強するのはやぶさかでないのですが、どう勉強したらよいのでしょうね。
一部だけ切り取られて引用されると誤解を受ける可能性がありますが、私ダビデの星や十字架を使うなという論調に与していません。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-10 20:36 x
★night_in_tunisiaさん、コメントありがとうございます。自分の見方が全てではない、自分の価値観だけで他者を否定するなということを言っています。もちろん、人命、人権、愛など人間に共通する価値観はあるべきだと思いますが。
Commented by fumi_o at 2005-01-10 23:45 x
お久し振りです♪
全然話は違いますが、青森県弘前市の銘菓に
#卍最中(まんじもなか)
というのがあります。:-)
こちらのサイトで確認できますよ。↓
http://ajiwai.or.jp/ajiwai_data/no146/page_02/page_02_data.html
Commented by n_ayada at 2005-01-11 00:54 x
私の文章力が無いばかりに、言いたかったことと反対の意味に受け取られたようです。この記事には賛意を示したつもりだったんです。
反省・・・・・
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-11 04:12 x
★fumi_oさん、いらっしゃいませ。コメントしていませんが私も継続して拝見しています。卍って弘前市の市章でもあるんですね。で、弘前市のホームページも見てみましたが、宗教的な意味はもたせてないんですね(弘前市のホームページの「市政」の下に「市議会」や「産業」と同じレベル、しかも「産業」の前に「りんご」ってあって微笑ましい)。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-11 04:17 x
★n_ayadaさん、真意を誤解して申し訳ありません。あの部分はわざと挑発的に書いて、自分でもぴりぴりしていたので、あの部分だけ取り出されると誤解を受けたかと思いました。
賛同いただけてありがたいです。
Commented by まきこ at 2005-01-11 19:20 x
にゃはは。おもしろい。
ハーケンクロイツは、ナチス党の党章だから、もしこれを誰かが使い出したら「おまえどういうつもりでそれ使ってるんだ」っていわれるのは当然ですよね?
日の丸は、大日本帝国の旗なわけじゃないからOK?
ってことは、大日本帝国の面々は、日本のみなさんに、「みなさんが親しんできた旗を侵略に使って、嫌われる旗にしてしまってごめんなさい」って謝って、侵略した国々には「みなさん、私たちはこの旗を使って侵略しましたが、これはもともと侵略のシンボルではありません」ってわかってもらうまで説明する必要があったってことになるのかな?
そうかもねー。でなきゃ、あの旗、使いにくいですよね。
ところで日の丸って、大日本帝国以前から日本の人たちに親しまれていたのかな。よくわかりません。
Commented by design-life at 2005-01-11 23:46 x
この記事確かに気になりました。デザインに身を置く者として、安易に謝罪して欲しくないものです。アメリカの友人とも話していたんですがユダヤの人々は、特に被害妄想が強いのかこの手の事(言い出したらキリがないし、同じような矛盾も秘めているのに)に神経質になっていますよね。マークを問いただすより、本質を問いただして欲しい。ちなみに卍ネタで言うとインドネシアの「スワルテチィカ」という逆卍の紋章(と言うかシンボル)があるのですが、それは幸福の象徴でもあるんです。たった一つの言いがかり(言い過ぎかもしれませんが)が諸民族の文化を犯すのはおかしいことです。。
Commented by hrcod at 2005-01-12 18:46 x
はじめまして。
記号の持つ力というか、与える影響にびっくりしました。自分を表す一つのツール、または象徴としての意味の上に、いろいろなものを背負って成り立っているものなのだなぁ、と感じました。それだけ影響のあるものとして、その対象としてデザイン(記号)は意味あるものだと痛感しました。しかし、その一方で「記号に罪を押しつけるな」という一節にはとても共感します。
それにしても、時には吐き捨てていたり、それでいて鋭い文章。こんなに爽やかに共感できたのは初めてです。思わずコメントしてしまいました。
Commented by smpinkd at 2005-01-12 22:49 x
はじめまして。色々と考えてしまいました。もっと勉強しなきゃ。
僕なんかは単純に世界的に広めたいのなら仕方ないんじゃないかと思ってました。少林寺拳法の関係者にしてみれば、グローバルに展開して、いずれは「オリンピック競技」になんてことの方が重要なんですよ。伝統よりも繁栄の道を選んだのですね。きっと。
この新しいマークが卍を超えるものだったら大拍手だったんですけどね。って話題が逸れてしまってますね。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-13 00:05 x
★たまごの距離のまきこさん、いらっしゃいませ。そんなにおもしろいですか?
私は「大日本帝国の面々」と日本民族を分けて考えていません。反戦を貫いた人もいるでしょうが、日本全体が戦争を歓迎または容認する空気になっていたのだと思いますので。といって批判するつもりもなく、ただ今後二度と過ちは繰り返しませんという決意につなげたいと思っています。
他国のシンボルをけがした訳ではないので、積極的に謝る必要はないと思いますが、日の丸が侵略のシンボルだと言われたら、そうではないことを根気づよく説明して行くしかないかと思います。もちろん多くの日本人がそこまでして日の丸にこだわる必要ないと思うのなら別なのですが、私は日の丸のデザインには愛着がある。色を3つ並べたデザインが多い中で、シンプルでユニーク、力強いデザインだと思う。鉢巻きに日の丸描いて「合格」なんて書けば勉強にも身が入るというものです。
話がそれました。日の丸の歴史は古いはずですが、どれだけ親しまれていたかに関しては分かりません。日の丸の歴史は国粋主義的な観点から書かれたものは多くみつかるのですが、客観的な記述を見つけることができません。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-13 00:16 x
★design-lifeひらさわさん、トラックバック+コメントありがとうございました。おかげさまで今日のアクセス倍増しており、とってもありがたいのだけれど、とってもコッパズカシイデス(ってすみません、PROP DESIGNさんの文章をパクってみました)。特にデザイン関係の人にとってはコンセプトから考えに考え抜いて作ったものに別の意味を与えられ、さらに謝罪すると言うことは相手の主張を認めることで受け入れがたいと思います。
おっしゃるとおりこれは「文化」であって、「文化」というのは「共有する価値観」のことです。それを否定するのが、一神教の宗教をもつ民族の不寛容性だと思います。
http://ryokan.exblog.jp/796210
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-13 00:30 x
★ hrcodさん、いらっしゃいませ。
言語は私のテーマの一つなんですが、言語も記号の一種で、同じような力を持っています。次の記事も関連していることを書いているので読んでいただくとありがたいです。うちの奥さんからはそんなかたいテーマで書いても誰も読んでくれないんじゃないのと言われているのですが。
http://ryokan.exblog.jp/1495261
それから、文章に関して過大な褒め言葉をいただきありがとうございます。てれるなあ。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-13 00:45 x
★smpinkdさん、いらっしゃいませ。
smpinkdさんもデザイン関係か建築関係なんですね。どちらにしろ新しいデザインを作る場合にはターゲットに響くだけでなく、多くの人に受けいれられるものにするのは重要だと思います。ただそのために伝統を犠牲にしてもらいたくないです。
Commented by 鍵 at 2005-01-14 13:50 x
Commented by あのう at 2005-01-14 19:08 x
>まきこさんは
みしるしもって戦争や紛争を人間は何千年やってたと思ってるんですか。
>ってことは、大日本帝国の面々は、日本のみなさんに、「みなさんが親>しんできた旗を侵略に使って、嫌われる旗にしてしまってごめんなさい」>って謝って
学校教科書受け売り程度の知識でよく言う。
中韓以外の国の当時の日本の対応とか国情しらべてみろ。
欧米的覇権侵略とまた違った側面がある。
インドネシアやフィリピン、台湾じゃ尊敬されてる日本人が沢山居た。
偶には相容れないかもしれんが対立側の情報も調べてみろ。
そんな浅はかな知識で国叩きなんぞ虫唾が走る。
Commented by 聞きかじり at 2005-01-14 22:37 x
卍や逆卍は単なる記号でなくて漢字のように意味をもった文字(凡字、チベット仏教の文字)じゃなかったっけ? 卍は「和」を意味し、逆卍は「力」を意味して双方を持たざれば人々を涅槃に導くことができないんじゃなかったっけ?卍からハーケンクロイツを連想するのは容易に想像できるが、言葉を尽くして説明したのかな?という気はしますね。残念です。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-14 22:40 x
★錠さん、「少林寺拳法がナチスより前」とは書いていません。「卍が(ナチスの)ハーケンクロイツより前」と書きました。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-14 23:22 x
★あのうさん、まきこさんは、「ということは」で始めているので、仮定を置いた場合の話をしていると思います。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-14 23:24 x
★聞きかじりさん、逆卍の存在は知りませんでした。ありがとうございます。「言葉を尽くして説明したのかな?という気はしますね。残念です。」という点は私も同意します。
Commented by SUSI at 2005-01-15 01:29 x
初めまして&既出だったらごめんなさい。
非常に不思議なんですけど、イスラエルはフィンランドやスウェーデンのルーセン伯爵家に文句をつけたことがあるのでしょうか? 青い逆卍(ハカリスティ)はルーセン家の幸福のシンボルであり、フィンランドは一時国章にしていました。さすがに紛らわしいので、1944年11月からは青十字を国章にしておりますけれども。現在でも、フィンランドにおいて青い逆卍はフリーパスです。
WW2時、NSDAPが意匠として使っていたのは45度右に傾けた逆卍で、正確には逆卍じゃないんですけどねえ。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-15 03:42 x
★SUSIさん、情報ありがとうございます。ルーセン伯爵家のことは初めて知りました。なにをもって反発されるのかよく分からなくなってきました。
Commented by かかしA at 2005-01-15 05:53 x
『ゴルゴ13”裏切りのスワスチカ”』にこのネタがありました。
ハーケンクロイツはオカルトに傾倒したナチスが、スワスチカというチベットの卍をデザイン化したもの、と説明してありました。
原因は来歴も知らずに嫌う人の方にあるのでしょうが、「一々、頭に血が上った人たちに対応するリスクを負うよりはいっそ変えちゃったほうが楽だ」というのも、まあもっともな考え方かなと思います。
もしどこかの団体のように「我々の勝利だ」などと宣伝に利用されたらたまったものではないでしょうが、今の所そういった話はないようですし。
しかし政治の尻拭いを、無関係な第三者がさせられるというのは、非常に苦々しい話ですね。
Commented by kotaro at 2005-01-15 07:25 x
少林寺拳法を少し習った者です。道着の左胸には卍の印がありました。級や段が上がっていくと,黒色卍が緑卍,赤卍,黄色卍などと替わっていくので,練習の励みにもなったものです。
少林寺拳法を学ぶとき,同時に教典を渡されました。中には,聖句,誓願,信条,道訓などが書いてありました。それらの教えの元に,鍛錬を積んだものです。自分のためと人のために。その内容は総本山のHPにもあります。ぜひ一読されたい。少林寺拳法は,自己確立と自他共楽のためにあるのです。
そのマークとしての卍が,理解なき怨恨によって変えられるというか,自己規制してしまわれるのが残念です。これには少林寺拳法総本山の開祖である故宋道臣先生も悲しんでおられるのではないでしょうか。
少林寺拳法を世界に広めるためには,その形だけ物理的にできていったってだめだというのは,やってる人間なら分かるはずです。卍マークも新しいマークと同様に広めていって,少林寺拳法がめざすものを文字通り説いていってほしいと願っています。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-15 11:17 x
★かかしAさん、コメントありがとうございます。逆卍の由来ですが、親衛隊の略称がSSでそれをデザイン化したものというのもありました。
http://www.ne.jp/asahi/mili/surva/dooberu/manzi.html
私は少林寺拳法グループにはもっと頑張ってほしかったのですが、民間団体に期待し過ぎなのかもしれませんね。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-15 11:23 x
★kotaroさん、コメントありがとうございます。少林寺拳法はそういう理念も重要視しているのですね。そういう理念を学んだ方にとっても、その理念まで曲解されているような無念さがあるのはとても理解できます。
Commented by newright at 2005-01-15 21:27 x
蒸し返すようですが日本の国旗が云々について・・・
ドイツが過去の過ちを悔いて逆卍を封印したことは相手の気持ちを慮った評価できる贖罪の方法ではあるでしょう。けれど一方の日本が戦中のシンボルでもあった日の丸を捨てなかったことはまるっきり過去から目を背けた開き直りなのでしょうか。
戦中の日本が何をしたとかしなかったとかいまさらな議論です。法的に裁かれ、賠償の責務もある程度果たしたはずのわたしたちがいまさら何を否定し、あるいは自らを貶める必要があるのでしょうか。
キリスト教の十字架はそもそも十字架に架けて神をその手で殺めてしまうという人間の犯した最大の罪を決して忘れないという意志によってシンボル化されたものです。
自らの過ちを認めて、それを繰り返さないために罪を背負っていくことは、そうした意思を保つ限りにおいて誇れる行為です。過去の罪をシンボルと一緒に捨て去って、わたしたちは変わりました、というほうがよっぽど楽なことだと思います。
ただそんなことをすっかり忘れて、旗についている汚れを躍起になって洗い流そうとするくらいなら、そんなものは捨てちゃったほうがいいですけどね。
Commented by 赤井報道 at 2005-01-16 10:47 x
昔、十字軍の遠征で侵略されたイスラム諸国では、赤十字の十字はタブーなので旗が違います。旗の図案は「剣を持った赤い猿の絵」です。
やはりタブーになるんでしょうな。
だがそれに過敏になり、他人に強制をするのもどうかと思う。
人が嫌うものをわざわざ誇示するのは単なる嫌がらせでしょうが、別に
自分が嫌いなのなら避ければいいだけ。また卍や逆卍を使う方も、十分な説明をして自分に意図的な非は無いと理解させればいい。
相手の立場を理解し、無意味な言葉狩りや記号狩りをすべきではないと思う。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-16 14:16 x
★newrightさん、コメントありがとうございます。おっしゃる通りだと思います。今後も平和を築いて行こうとする意志が重要ですよね。
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-16 14:19 x
★赤井報道さん、イスラム世界における赤十字の扱いに関しては初めて知りました。ありがとうございます。
> 無意味な言葉狩りや記号狩りをすべきではない
私も同じ思いです。
Commented by KEN-NYE at 2005-01-26 15:02 x
赤十字は国際組織があって、その下に各国の組織がありますが、イスラム圏では十字を使わず「赤新月」になっていますね。「赤新月」の言葉はイラクのニュース等でお馴染みかと思いますが。
http://rcehime.parfe.jp/kokusai51.html
日の丸って美しいですよね。3歳児でも書けるし、遠くから見ても間違えようがない。「色の順番どうだっけ?」と悩むこともない。私の知識が間違っていなければ、元々貿易船だったか軍艦だったかが国籍を明確にするために使い始めたのがそのうち「国の旗」と認められるようになったもので、明治時代ぐらいからでしょう。意匠としては大昔からあるようです。
侵略戦争に対する非難を全身で受け止める日の丸も可哀相です。そろそろ、受けるべき人が非難を受け止めなければ?
Commented by yoshihiroueda at 2005-01-27 01:19 x
★KEN-NYEさん、前のコメント通り、私はイスラム圏の赤十字のことは知らなかったのです。「赤新月」というのはKEN-NYEさんの情報で初めて知りました。ありがとうございます。日の丸は守って行きたいもののひとつですね。
Commented by 赤井報道 at 2005-03-08 00:47 x
日の丸はシンプルで、それでいて美しい。
明治時代、この日の丸を売って欲しいと言ってきた国もいるほどです。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/hinomaru.html
>遂にはフランス(泉欣七郎・千田健共編『日本なんでもはじめ』 注、安津素彦『国旗の歴史』によればイギリス)が、正式に政府代表を立てて明治新政府に対し、「日の丸を500万円(当時の金額)で我が国に売却して欲しい」と依頼してきたのです。
Commented by yoshihiroueda at 2005-03-08 02:59 x
★ 赤井さん、日の丸を売ってくれという依頼があったことははじめて知りました。教えていただきありがとうございます。売ってくれといわれるほどだと知ってますます誇らしくなりますね。また、売らなかった明治政府にも感謝したいと思います。
Commented by 23 at 2005-04-27 14:55 x
少林寺拳法は以前から外国では違うマークを使っていますた。今回の変更は団体内部の利権がらみではないかと言われれおり、怒っている少林寺拳士がたくさんいますよ。ちなみに、少林寺は中国の少林寺にパテント料みたいなものを貢いでいることでも有名ですが
Commented by yoshihiroueda at 2005-04-29 07:36 x
★23さん、情報ありがとうございます。23という名前のところは2ちゃんねる当該スレッドへのリンクなんですね。少林寺拳法と中国の少林寺は組織的なつながりはないとはいいながら、そういう関係(ロイヤルティ?)はあるんですね。
Commented by 昔習ってました at 2007-09-23 16:20 x
う~ん、やはり他の国に遠慮してマークを変えたというのはどう考えてもばかばかしい。
ホントウの理由があるがそれを公表できないのでもっともらしい理由をとってつけたと考えるのが良いのでは?23さんの言うように利権がらみってのが妥当なところでしょう。
中国の少林寺かどうかはわかりませんが、もっと俗っぽい個人もしくは団体に、「俺たちが権利もっているから使うなら金払え」って言われていたとか。
Commented by yoshihiroueda at 2007-09-23 23:49 x
★ 昔習っていた方、
昔の投稿にコメントをいただき少々驚いています。なにかあったかな?
他のスポーツが体育協会みたいな組織になっているのに対して、日本の少林寺は個人が立ち上げた組織のようですね。そういう意味で情報公開も十分でないのだと思います。単なる言い訳に使われたのだとしたらユダヤ団体の皆さんにも迷惑な話ですね。
2005/01/08
欠乏充足欲求と成長欲求
おはようございます。人はパンの耳だけで生きられない、って何を言ってるのだ俺は。
はりーさんが、「成長欲求その3」で「これでも違和感は残るなぁ。」と述べている。たぶん微妙なところで定義が違うのではないだろうか。または定義は同じだがそこにはいるインスタンスの想定が違うのかもしれない。
まず、「欠乏充足欲求」は他人が与えることもできるもの、「成長欲求」は他人が与えることができないものという区別(定義ではない)は同意していただけると思う。
また、ハリーさんのいう
しかし、ここで成長欲求で例に出されているものがスポーツや芸術家などなのだが、これらは個人レベルの努力で実現 (プロセスなので「実現」という言葉はおかしいが) できるものに限定されているように思う。
例えば、バンドをやりたい、コンサートをやりたいといったらどうだろう。また、こんな商品を世の中に送り出してやりたい、ヒットさせたいという欲求はどうだろう。人との関わりの中で自分の意志を伝えたり、他人が求めているものを知ったり、社会の仕組みを理解していたり、欠乏充足欲求を自分で満たそうと思った場合に必要だったスキルはやっぱり必要になるだろう。何でも与えられていた時には必要でなかった工夫も想像力も必要だ。もちろんハリーさんのいうように違う力は求められるが、欠乏充足欲求を満たすために必要だった基本的な「生きる力」はやはり必要と思うので「前提」と書いた。
もしかしたらこの「欠乏充足欲求を満たすために必要な力」というもののレベルがハリーさんと私で違うのかもしれない。それは「欠乏充足欲求」のレベルが違うのかもしれない。というのは、
...
話が結局「欠乏充足欲求」と「成長欲求」に区別がつけられないという方向になりつつある。最初の時点で、私が言いたかったことをハリーさんが出された「成長欲求」に絡めた話に持って行こうとしたのがまずかったのか。
これらをふまえてもう一度言いたかったことを修正してみる。前回の修正版
どうかな。乱暴な論理展開は含まれていると思うが、私の中では整理されてきたと思う。つきあっていただいたハリーさんには感謝しています。
最後にちょっと補足。もともと子どもに何でも与え過ぎるのはどうかという話だったが、子どものときに与え過ぎると一生ダメと思っている訳ではありません。大人になってもまれてから生きる力の不足に気付いても取り返しはつくと思っています。逆に大人になってからも生きる力が衰えることがあるだろうと思います。
はりーさんが、「成長欲求その3」で「これでも違和感は残るなぁ。」と述べている。たぶん微妙なところで定義が違うのではないだろうか。または定義は同じだがそこにはいるインスタンスの想定が違うのかもしれない。
まず、「欠乏充足欲求」は他人が与えることもできるもの、「成長欲求」は他人が与えることができないものという区別(定義ではない)は同意していただけると思う。
また、ハリーさんのいう
満腹になればそれ以上は食べられない。美味しい物や珍しい物を食べたいとかいう、さらなる欠乏は発生するだろうけど、基本的に欠乏は埋めれば解決、満足できる。「状態」と「プロセス」の差異にも同意できる。
これに対して、成長はプロセスであり、その欲求も満足も客観的な尺度など無い。自分が実現できていると感じるかどうか、でしかないのだ。
しかし、ここで成長欲求で例に出されているものがスポーツや芸術家などなのだが、これらは個人レベルの努力で実現 (プロセスなので「実現」という言葉はおかしいが) できるものに限定されているように思う。
例えば、バンドをやりたい、コンサートをやりたいといったらどうだろう。また、こんな商品を世の中に送り出してやりたい、ヒットさせたいという欲求はどうだろう。人との関わりの中で自分の意志を伝えたり、他人が求めているものを知ったり、社会の仕組みを理解していたり、欠乏充足欲求を自分で満たそうと思った場合に必要だったスキルはやっぱり必要になるだろう。何でも与えられていた時には必要でなかった工夫も想像力も必要だ。もちろんハリーさんのいうように違う力は求められるが、欠乏充足欲求を満たすために必要だった基本的な「生きる力」はやはり必要と思うので「前提」と書いた。
もしかしたらこの「欠乏充足欲求を満たすために必要な力」というもののレベルがハリーさんと私で違うのかもしれない。それは「欠乏充足欲求」のレベルが違うのかもしれない。というのは、
限られたパイを奪い合うのと、自分が成長したり、より良き社会を創り上げていくのとでは、必要となる力は違うんじゃないかなぁ?とあるのだが、私が想定する「欠乏充足欲求」は、今の日本では、不満さえいわなければ「限られたパイを奪い合う」ことなしに満たすことができると思っているからだ (前回大前研一を引用したのはこの考え方にはあっていないので不適切だった)。確かにこの「不満」は、「より良い生活をしたい」という意味では「欠乏充足欲求」なのかもしれないが、「私にはもっと価値のある仕事ができるはず」という意味では「成長欲求」と思えるのだ。どちらかが正しいといってる訳ではなく、捉え方はさまざまだろうといっています。
...
話が結局「欠乏充足欲求」と「成長欲求」に区別がつけられないという方向になりつつある。最初の時点で、私が言いたかったことをハリーさんが出された「成長欲求」に絡めた話に持って行こうとしたのがまずかったのか。
これらをふまえてもう一度言いたかったことを修正してみる。前回の修正版
低レベルの欲求を自分の力で満たしていく上で身に付けた力が、上位レベルの欲求を実現する前提になっているのかもしれない。を、これまでの言葉もとりいれて
他人が与えることで欲求を自分の力で満たしていく力を身に付けていないと、他人が満たしてやれない欲求を持った際に途方にくれる。他人が満たしてやれない欲求を自分で満たそうと思わなくなり、さらには、欲求をもたなくなるようにもみえる。と修正してみた。原型とどめていませんね。
どうかな。乱暴な論理展開は含まれていると思うが、私の中では整理されてきたと思う。つきあっていただいたハリーさんには感謝しています。
最後にちょっと補足。もともと子どもに何でも与え過ぎるのはどうかという話だったが、子どものときに与え過ぎると一生ダメと思っている訳ではありません。大人になってもまれてから生きる力の不足に気付いても取り返しはつくと思っています。逆に大人になってからも生きる力が衰えることがあるだろうと思います。
2005/01/07
成長欲求を叶える力
こんばんは。海賊王に俺はなる、ルフィです(ウソ)。
私の生煮えの考えにトラックバック、ご意見ありがとうございました。
まず、マズローの言葉を使っていますが、これに関しては、トラックバックしてくれたハリーさんの「成長欲求」へのコメントでsabretoothjapanさんが、解説およびそれに対する批判も含めて解説して下さっています。ごめんなさい、ちゃんと理解してもいないまま使っていました。私の捉え方はすごく低レベルで、「衣食足って礼節を知る」、ちがった、「人はパンのみにて生きるにあらず」くらいの意味でした。以降ではマズローの「自己実現」などという言葉は使わず、ハリーさんが使われている「成長欲求」を使うことにします。あるいは「夢」といっても良いかもしれません。
私が書いた記事の
うん、分かります。ではこう変えてはどうでしょうか。
私がいいたかったのは、この「力」なのではないかと思う(まだちゃんと整理できていないので他人事みたいな書き方になっています、腹が据わってなくて申し訳ありません)。生きる上で工夫したり、想像力を発揮したりする必要がなかったら、そういう力を身に付けることができず、いざ自分の夢をもったときにどう実現させれば良いのか途方に暮れるのではないか。そして一部の人は最初の時点から挫折するのではないか。そしてそれは「成長欲求」を持っていない状態と区別が付かないのではないか、と思うのだ。
ちょうどPRESIDENT 2005.1.17号で大前研一が
まだ固まった意見とはいいがたいですが、少なくとも「生きる力」を具えることは重要と思う、ということだけはいっておいて筆を置きたいと思います。
私の生煮えの考えにトラックバック、ご意見ありがとうございました。
まず、マズローの言葉を使っていますが、これに関しては、トラックバックしてくれたハリーさんの「成長欲求」へのコメントでsabretoothjapanさんが、解説およびそれに対する批判も含めて解説して下さっています。ごめんなさい、ちゃんと理解してもいないまま使っていました。私の捉え方はすごく低レベルで、「衣食足って礼節を知る」、ちがった、「人はパンのみにて生きるにあらず」くらいの意味でした。以降ではマズローの「自己実現」などという言葉は使わず、ハリーさんが使われている「成長欲求」を使うことにします。あるいは「夢」といっても良いかもしれません。
私が書いた記事の
もしかしたら、低レベルの欲求(1. 生理的欲求と2. 安全の欲求)は自分の力で満たしていくことが、上位レベルの欲求をいだく前提になっているのかもしれない、とも思う。の部分に対して、ハリーさんは、
要するに如何に明日を創っていくか、なのだろうから、低次欲求を自分で満たすかどうかとは直接関係しないと思うのだがねぇ。と書かれています。
うん、分かります。ではこう変えてはどうでしょうか。
低レベルの欲求を自分の力で満たしていく上で身に付けた力が、上位レベルの欲求を実現する前提になっているのかもしれない。変え過ぎですね。
私がいいたかったのは、この「力」なのではないかと思う(まだちゃんと整理できていないので他人事みたいな書き方になっています、腹が据わってなくて申し訳ありません)。生きる上で工夫したり、想像力を発揮したりする必要がなかったら、そういう力を身に付けることができず、いざ自分の夢をもったときにどう実現させれば良いのか途方に暮れるのではないか。そして一部の人は最初の時点から挫折するのではないか。そしてそれは「成長欲求」を持っていない状態と区別が付かないのではないか、と思うのだ。
ちょうどPRESIDENT 2005.1.17号で大前研一が
これから日本は大混乱に陥る。一寸先は闇のジャングルの中で生きてることのできるできる人間を育てないといけない。その訓練を世間知らずの教師に任せていたら、生贄になるための人間を育てるようなもので、世の中に出たら即死すること間違いなしだ。... 会社の厳しさ、マーケットの激しさといった「ジャングルのルール」を教えられるのは父親だけなのだ。と書いている (原文には母親ではなく父親だけと書いてあるのだがそこはここの論旨から外れるので引用しない)。要は生きる力を身につけさせろということだろう。ここで引用していない分も含めると、低レベルの生きる力だけでなく夢を実現させる力も含んでいることが分かる。
まだ固まった意見とはいいがたいですが、少なくとも「生きる力」を具えることは重要と思う、ということだけはいっておいて筆を置きたいと思います。
2005/01/04
豊かな時代のモチベーション
こんばんは。富豪刑事 深田恭子です(ウソ)。
そふぃあさんが、「すこし改まって」で
私も今から見れば子供の頃は豊かではありませんでしたが、物質的に窮乏を感じたことはありません。大学時代は親元を離れ仕送り+奨学金 (+バイト) で生活していたので決して自由にお金が使えた訳ではなかったのですが、それで不幸だと思ったことはなく、その範囲で生活することを楽しんでいたように思います。帰省は周遊券を使えば急行は追加料金が不要だったので、夜行の急行 (寝台車ではなく一般座席) を使ったりしていました。就職してからも多少楽になったものの、一人暮らしは変わらないので、お金をセーブしながら生活を楽しむのは変わりません。そのレベルでの生きていく力はあったと思います (今も貧乏性が抜けないのはちょっと困る点)。
一方今の子どもたちは、そふぃあさんが指摘されるように、物資的に豊かになっています。工夫、想像が足りないのは、そうしなくても生きていけるからだと思います。物質的だけでなく、精神的にも、少子化と家庭内労働の短縮化で親のケアが行き届くことと、叱らない育て方の広がりによって、自分で問題を解決しなければいけない局面も減ってきていると思うのです。
こんな満たされた世の中で子どもたちは何を目標にして生きていくのだろうか。
はりーさんが、「抱負」で、
もしかしたら、低レベルの欲求 (1. 生理的欲求と2. 安全の欲求) は自分の力で満たしていくことが、上位レベルの欲求をいだく前提になっているのかもしれない、とも思う。
昔大学時代のことだが、本宮ひろ志のマンガで、「近頃の若者は恵まれているのでなっとらん」と言われた主人公は、「恵まれていて何が悪い。我々若者は恵まれたものを受け入れ、そこから新しいものを創っていくのだ」と反論するシーンがあった (かぎ括弧でくくっていますが記憶はめちゃくちゃあいまいです)。私はその当時この主張に違和感を持った。ハングリー精神と言うかそういうものが必要なんじゃないかと思った。
一方、海老沢泰久が井上陽水のことを描いたノンフィクション「満月 空に満月」では、
散漫になってしまいました。豊かさとモチベーションに関して、今度は個人レベルではなく社会レベルで考えてみたいと思います。
そふぃあさんが、「すこし改まって」で
私も戦後の世代ですが、生まれたときはまだまだ日本が貧しかった頃でした。と書かれています。
現代の若者や我が子を見るたびに、物質的には恵まれた時代だと、しみじみ思います。
しかし、モノが豊かになった分、頭を使ったり工夫したり想像したりすることが
減ってきているな、ということも確実に感じます。
欲すればいくらでも手に入る時代、我慢したり辛抱したり苦労するのは
馬鹿げたことなのかもしれないですが
私も今から見れば子供の頃は豊かではありませんでしたが、物質的に窮乏を感じたことはありません。大学時代は親元を離れ仕送り+奨学金 (+バイト) で生活していたので決して自由にお金が使えた訳ではなかったのですが、それで不幸だと思ったことはなく、その範囲で生活することを楽しんでいたように思います。帰省は周遊券を使えば急行は追加料金が不要だったので、夜行の急行 (寝台車ではなく一般座席) を使ったりしていました。就職してからも多少楽になったものの、一人暮らしは変わらないので、お金をセーブしながら生活を楽しむのは変わりません。そのレベルでの生きていく力はあったと思います (今も貧乏性が抜けないのはちょっと困る点)。
一方今の子どもたちは、そふぃあさんが指摘されるように、物資的に豊かになっています。工夫、想像が足りないのは、そうしなくても生きていけるからだと思います。物質的だけでなく、精神的にも、少子化と家庭内労働の短縮化で親のケアが行き届くことと、叱らない育て方の広がりによって、自分で問題を解決しなければいけない局面も減ってきていると思うのです。
こんな満たされた世の中で子どもたちは何を目標にして生きていくのだろうか。
はりーさんが、「抱負」で、
マズローの言う通り、自己実現は人間の最高次の欲求であり、一人ひとりがそれに向けて成長していると実感できるときにこそ、大きな価値が産み出される。と書かれているように、物質的要求 (マズローでは1. 生理的欲求と2. 安全の欲求に対応) が満たされていても、その上の欲求がある。低レベルの欲求が実現されていることは、高次の欲求を実現するためのスタートライン上で優位な位置にあるともいえるのに。
もしかしたら、低レベルの欲求 (1. 生理的欲求と2. 安全の欲求) は自分の力で満たしていくことが、上位レベルの欲求をいだく前提になっているのかもしれない、とも思う。
昔大学時代のことだが、本宮ひろ志のマンガで、「近頃の若者は恵まれているのでなっとらん」と言われた主人公は、「恵まれていて何が悪い。我々若者は恵まれたものを受け入れ、そこから新しいものを創っていくのだ」と反論するシーンがあった (かぎ括弧でくくっていますが記憶はめちゃくちゃあいまいです)。私はその当時この主張に違和感を持った。ハングリー精神と言うかそういうものが必要なんじゃないかと思った。
一方、海老沢泰久が井上陽水のことを描いたノンフィクション「満月 空に満月」では、
... そのころは、豊かな生活とか豪華なものとかを知らなかったからね。その存在そのものを。でもその意味では、いまだに知らないのかもしれないんだよ。あるところでは、そういう豊かなものとか豪華なものを拒否している部分もあるしね。という記述があって、自分はどうなんだろうかと思う。今は駄目になっているとは思わないが、それはレベルの問題であって、豪華なプールや美女に囲まれた生活だったら駄目になるかも。今NEETと呼ばれている人達は、そこまで行かないレベルで精神が駄目になった (と言うのはいいすぎですが) といえるのかもしれない。
ようするに、これがなさけないところで、精神至上主義というか、ものに対して豊かになっていくことで精神が汚れていくんじゃないかという神話にまだふりまわされているところがあるんだよね。でも一方では、そこらへんでふりまされるような精神じゃ、ぜんぜん駄目だとも思うんだよ。豪華なプールや美女に囲まれた生活で駄目になる精神じゃね。...
散漫になってしまいました。豊かさとモチベーションに関して、今度は個人レベルではなく社会レベルで考えてみたいと思います。
2005/01/01
バックログ 2004年下半期
一旦宿題を整理して、残った宿題で新たな宿題リストを作ります。
2004年下半期 (9月から) 課題 31 (途中追加を含む) ◯ 12、× 19
新潟中越地震最新情報:
新潟中越地震 被災者救援本部@2ch Wiki
-- 常に最新の情報のようですが、フラットになり過ぎていて切迫感が伝わってこないのが残念です。下記を御覧下さい。
中越元気村
シバレイさんのブログにイラク民主化国民潮流からのメッセージが載せられています。
ここではいつか書きたい話題を更新しています。
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2004年下半期 (9月から) 課題 31 (途中追加を含む) ◯ 12、× 19
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中越元気村
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ここではいつか書きたい話題を更新しています。
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2004/12/31
バックログ 2004年下半期
* 一旦宿題を整理して、残った宿題で新たな宿題リストを作ります。
* 2004年下半期 (9月から) 課題 31 (途中追加を含む) ◯ 12、× 19
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コトバノチカラ (3) コノテーション
しまった。勉強足りないのに専門用語なんか使うんじゃなかった。大雑把なことを書きますので間違い等ご指摘いただければ幸いです。
言葉の本来の意味をデノテーションといい、言外の意味、付随する意味、想起される意味をコノテーションといいます。例えば「バラ」のデノテーションは植物・花としてのバラですが、コノテーションとして「情熱」という意味を持ちます。
言葉は普通最初はデノテーションだけで生まれ、使われていくうちにコノテーションが付加されていくのだと思います。もともとのクリーンな意味がだんだんいろいろなものを身にまとっていくと言うか、汚れていくというか、そういうイメージ。
例えば「リストラ」。もともとは「リストラクチャリング」で、「(企業の) 事業構造を組み替えることにより、積極的に経営のあり方を変革させていく」ことでした。基本的には事業の軸足を変えることなので、縮小して立て直しということも含まれはするのですが、本来は前向きなイメージだったはずです。ところが、事業が苦しくなって当面のコストを減らすために人員削減するだけの場合も使う経営者が出てきました。良いイメージの言葉で実情を糊塗する訳ですね。さらにはピンポイントで退職を勧告したりクビにしたりする場合も使われるようになり、個人を主語にして「リストラされる」という使い方までされるになりました。こうなっては解雇の意味以外では「リストラ」という言葉は使えなくなります。
今は「構造改革」と言います。小泉首相がこの言葉を使い出したとき、私は、公務員の解雇をイメージさせるので「リストラ」という言葉を避けているのだと思いました。「痛みを伴う改革」もリストラなんだから痛みを伴うのは当然だろうと思っていました。会社でいうと従業員にあたる公務員も経営者である政府側も。ところが蓋を開けてみると痛みを伴うのは国民 (会社にたとえると顧客+株主) だけという結果になりそうです。また、聖域を作らないとも言っていましたが、手をつけられているのは一部だけで、それらもみんな骨抜きになっています。これによって汚された「構造改革」という言葉も今後使うのに躊躇が必要な言葉になり、さらには新しい言葉が発明されていくのではないかと思います。
他の例としては、ネットでよく使われる「プロ市民」。私はすでに「ゴロツキ」という感じのコノテーションしか残っていない段階でこの言葉を知ったので本来のデノテーションを知らなかったのですが、当初はいい意味だったらしいですね。
こうやって言葉が使い捨てられて行くのですね。
いや、正しくは、まだ捨てられているわけではない。相手に対してその言葉でラベル付けをすることで、相手に対して悪いイメージを与えることができます。そのラベルが正しいかどうかはあまり関係がありません。読者の多くはそのラベルが本当なのかという検証をする時間を持っていませんので、とりあえずそのラベルが正しいものと判断して先へ進めます。検証する機会はその後二度と来ないかもしれません。マスコミも使っていますから(前回の記事参照)、一旦ラベルがつけられると、それを取り外すことは非常に困難になります。
皆さんにお願いしたいのは、このようなラベルを疑ってみてもらいたいということです。最初にそのラベルをつけた人は、何を根拠にそのラベルをつけたのか、その理由は正しいのか、また、ラベルをつけた人の意図はなんなのか。特に「テロリスト」、「ファシスト」、「抵抗勢力」、「プロ市民」、「ウヨ」、「サヨ」、「差別主義者」...
言葉を汚し、汚れた言葉を利用する人達。
たとえアカデミー・フランセーズが許してもこのuedaが許しません。
ああ、今年最後なのにきれいに終われませんでした。まあきれいに終わるより自分を出して終わるほうが良いかもしれません。窓の外には雪が... 汚い現実を覆ってくれています。って何を言ってんだ俺は。
来年もこんな調子で怒りを表明したり、バカをさらけ出したり、ウソ言ったりしますので、よろしくお願いします。
言葉の本来の意味をデノテーションといい、言外の意味、付随する意味、想起される意味をコノテーションといいます。例えば「バラ」のデノテーションは植物・花としてのバラですが、コノテーションとして「情熱」という意味を持ちます。
言葉は普通最初はデノテーションだけで生まれ、使われていくうちにコノテーションが付加されていくのだと思います。もともとのクリーンな意味がだんだんいろいろなものを身にまとっていくと言うか、汚れていくというか、そういうイメージ。
例えば「リストラ」。もともとは「リストラクチャリング」で、「(企業の) 事業構造を組み替えることにより、積極的に経営のあり方を変革させていく」ことでした。基本的には事業の軸足を変えることなので、縮小して立て直しということも含まれはするのですが、本来は前向きなイメージだったはずです。ところが、事業が苦しくなって当面のコストを減らすために人員削減するだけの場合も使う経営者が出てきました。良いイメージの言葉で実情を糊塗する訳ですね。さらにはピンポイントで退職を勧告したりクビにしたりする場合も使われるようになり、個人を主語にして「リストラされる」という使い方までされるになりました。こうなっては解雇の意味以外では「リストラ」という言葉は使えなくなります。
今は「構造改革」と言います。小泉首相がこの言葉を使い出したとき、私は、公務員の解雇をイメージさせるので「リストラ」という言葉を避けているのだと思いました。「痛みを伴う改革」もリストラなんだから痛みを伴うのは当然だろうと思っていました。会社でいうと従業員にあたる公務員も経営者である政府側も。ところが蓋を開けてみると痛みを伴うのは国民 (会社にたとえると顧客+株主) だけという結果になりそうです。また、聖域を作らないとも言っていましたが、手をつけられているのは一部だけで、それらもみんな骨抜きになっています。これによって汚された「構造改革」という言葉も今後使うのに躊躇が必要な言葉になり、さらには新しい言葉が発明されていくのではないかと思います。
他の例としては、ネットでよく使われる「プロ市民」。私はすでに「ゴロツキ」という感じのコノテーションしか残っていない段階でこの言葉を知ったので本来のデノテーションを知らなかったのですが、当初はいい意味だったらしいですね。
こうやって言葉が使い捨てられて行くのですね。
いや、正しくは、まだ捨てられているわけではない。相手に対してその言葉でラベル付けをすることで、相手に対して悪いイメージを与えることができます。そのラベルが正しいかどうかはあまり関係がありません。読者の多くはそのラベルが本当なのかという検証をする時間を持っていませんので、とりあえずそのラベルが正しいものと判断して先へ進めます。検証する機会はその後二度と来ないかもしれません。マスコミも使っていますから(前回の記事参照)、一旦ラベルがつけられると、それを取り外すことは非常に困難になります。
皆さんにお願いしたいのは、このようなラベルを疑ってみてもらいたいということです。最初にそのラベルをつけた人は、何を根拠にそのラベルをつけたのか、その理由は正しいのか、また、ラベルをつけた人の意図はなんなのか。特に「テロリスト」、「ファシスト」、「抵抗勢力」、「プロ市民」、「ウヨ」、「サヨ」、「差別主義者」...
言葉を汚し、汚れた言葉を利用する人達。
たとえアカデミー・フランセーズが許してもこのuedaが許しません。
ああ、今年最後なのにきれいに終われませんでした。まあきれいに終わるより自分を出して終わるほうが良いかもしれません。窓の外には雪が... 汚い現実を覆ってくれています。って何を言ってんだ俺は。
来年もこんな調子で怒りを表明したり、バカをさらけ出したり、ウソ言ったりしますので、よろしくお願いします。
2004/12/30
コトバノチカラ (2) 意図の伝達能力
"Boys, be ambiguous." クラーク博士です (ウソ)。
次回は、「あいまいさの少なさ」の予定と言っていましたが、もう少しストレートに「意図の伝達能力」としました。自然言語であいまいさが少ない?と訝しがる方もおられると思いますので。
ここでは、イメージ (動画を含む) と比較します。見えるものそのものなのであいまいさはないだろうとおっしゃる方も多いと思います。しかし、実体にはさまざまな側面があります。一人の人をとっても、性別、年代での位置付け、職業、その時点での行動や位置付け (「歩行者」、「被害者」など)、個人的関係 (「友人」など)、固有名もあります。文章中では、どれかのラベルを選択するか (複数かもしれない) は、伝える側がどう認識しているか、どう伝えたいかによります。これが「意図の伝達」です。映像ではそうのような解釈無しで見える情報は一度に伝えられます。この映像で伝えられないものは、それまでのストーリー中で分かるように説明しておく必要があります。
実体だけでなく行動も意味付けを与えることができます。映像で「人を押し倒している」ようにみえる行動は、暴力をふるっている場合もあるでしょうし、柔道をやっているのかもしれませんし、犯罪者をとりおさえているのかしれません。このため、フォトジャーナリストの広河隆一もジェームズ・ナクトウェイも、「写真にはキャプションは不可欠だ」といっています (DAYS JAPAN 2005年1月号 「報道とフォトジャーナリスト」)。
一旦このように伝達側がラベルをつけてしまうと、受信側はそのことに言及する際に違うラベルをつけにくくなります。違うラベルで言及した場合に混乱を招くからです。傍で聞いている人がいる場合は特にそうでしょう。最初にラベルをつけると後々までコントロールすることが可能になります。例えば「教祖」と名乗れば、たとえその団体が宗教的なものよりも利益追求集団というべきものであっても、「教祖」と呼ばざるを得ません。せいぜいかぎ括弧をつけて「自称」であることを示すくらいでしょうか。自分に対するものだけでなく、相手に対しても「抵抗勢力」等ということができます。
それが使われつづけると、そのそのラベルがその実体を指す正しいものなのかさえ問われなくなり、前提化してしまいます。「抵抗勢力」といったときに、理由があって反対しているという位置付けが失われ、改革に抵抗している = 既得権益を守ろうとしている = 国をくいものにしている人々という印象を持たせることが可能になります。
「意図の伝達能力」は、最初は話し手と聞き手、書き手と読み手の関係での話だったのが、そのあとまで影響を与えることができるのです。
次は「コノテーション」の話の予定です。
次回は、「あいまいさの少なさ」の予定と言っていましたが、もう少しストレートに「意図の伝達能力」としました。自然言語であいまいさが少ない?と訝しがる方もおられると思いますので。
ここでは、イメージ (動画を含む) と比較します。見えるものそのものなのであいまいさはないだろうとおっしゃる方も多いと思います。しかし、実体にはさまざまな側面があります。一人の人をとっても、性別、年代での位置付け、職業、その時点での行動や位置付け (「歩行者」、「被害者」など)、個人的関係 (「友人」など)、固有名もあります。文章中では、どれかのラベルを選択するか (複数かもしれない) は、伝える側がどう認識しているか、どう伝えたいかによります。これが「意図の伝達」です。映像ではそうのような解釈無しで見える情報は一度に伝えられます。この映像で伝えられないものは、それまでのストーリー中で分かるように説明しておく必要があります。
実体だけでなく行動も意味付けを与えることができます。映像で「人を押し倒している」ようにみえる行動は、暴力をふるっている場合もあるでしょうし、柔道をやっているのかもしれませんし、犯罪者をとりおさえているのかしれません。このため、フォトジャーナリストの広河隆一もジェームズ・ナクトウェイも、「写真にはキャプションは不可欠だ」といっています (DAYS JAPAN 2005年1月号 「報道とフォトジャーナリスト」)。
一旦このように伝達側がラベルをつけてしまうと、受信側はそのことに言及する際に違うラベルをつけにくくなります。違うラベルで言及した場合に混乱を招くからです。傍で聞いている人がいる場合は特にそうでしょう。最初にラベルをつけると後々までコントロールすることが可能になります。例えば「教祖」と名乗れば、たとえその団体が宗教的なものよりも利益追求集団というべきものであっても、「教祖」と呼ばざるを得ません。せいぜいかぎ括弧をつけて「自称」であることを示すくらいでしょうか。自分に対するものだけでなく、相手に対しても「抵抗勢力」等ということができます。
それが使われつづけると、そのそのラベルがその実体を指す正しいものなのかさえ問われなくなり、前提化してしまいます。「抵抗勢力」といったときに、理由があって反対しているという位置付けが失われ、改革に抵抗している = 既得権益を守ろうとしている = 国をくいものにしている人々という印象を持たせることが可能になります。
「意図の伝達能力」は、最初は話し手と聞き手、書き手と読み手の関係での話だったのが、そのあとまで影響を与えることができるのです。
次は「コノテーション」の話の予定です。
2004/12/29
コトバノチカラ (1) 経済性
ご無沙汰しておりました。玉置宏です (ウソ)。ちょっと余裕がなくてサボっていました。
「言葉のもつ力を少しずつ考えたい」という宿題が残っていました。まず第1回目、経済性について書きます。とはいえ、これは普通に言われていることで私の独自の考えという訳ではありません。
言葉は記号です。無限の音を少ない数の文字 (日本語だと濁音を含め約70種の文字) で表現し、その文字を組み合わせ数千から数十万語の単語を組み立て、その有限の単語で無限の概念を表します。日本語だと音 (かな) と単語の間に「漢字」というレベルがあるといってもいいかもしれません。またその単語を組み合わせて複雑な事実、知識、思想を伝えます。
ここで「無限」と言っているのは、連続的になっているということで、いわばアナログです。それに対して人間の認知能力はそれらを十分区別出来るほど解像度は高くない。いや違いは分かるのですが、伝達できないということです。虹は連続に色が変化していますが、それを区別できないので七色と言うのです。そういう意味では「言葉はデジタル」と言えます。ちょっと普通に言われていることと違うので変な感じがするかもしれませんが。
伝達できないだけでなく、受け手も区別する必要ないということです。「赤は止まれ」という時の「赤」は、「青」、「黄」と区別できれば良いということです。正確に言えば波長で表すことはできるのですが、人間の感じ方も一定ではありませんし、その意味するところの本質が伝えられることが重要になります。
表題に「経済性」と書きましたが、記号化によって短いビット長で伝達できるという以上に、受け手が区別に悩まずにすむことで認識が速いと言うことが重要なのではないかと思います。
次回は、「あいまいさの少なさ」の予定です。
「言葉のもつ力を少しずつ考えたい」という宿題が残っていました。まず第1回目、経済性について書きます。とはいえ、これは普通に言われていることで私の独自の考えという訳ではありません。
言葉は記号です。無限の音を少ない数の文字 (日本語だと濁音を含め約70種の文字) で表現し、その文字を組み合わせ数千から数十万語の単語を組み立て、その有限の単語で無限の概念を表します。日本語だと音 (かな) と単語の間に「漢字」というレベルがあるといってもいいかもしれません。またその単語を組み合わせて複雑な事実、知識、思想を伝えます。
ここで「無限」と言っているのは、連続的になっているということで、いわばアナログです。それに対して人間の認知能力はそれらを十分区別出来るほど解像度は高くない。いや違いは分かるのですが、伝達できないということです。虹は連続に色が変化していますが、それを区別できないので七色と言うのです。そういう意味では「言葉はデジタル」と言えます。ちょっと普通に言われていることと違うので変な感じがするかもしれませんが。
伝達できないだけでなく、受け手も区別する必要ないということです。「赤は止まれ」という時の「赤」は、「青」、「黄」と区別できれば良いということです。正確に言えば波長で表すことはできるのですが、人間の感じ方も一定ではありませんし、その意味するところの本質が伝えられることが重要になります。
表題に「経済性」と書きましたが、記号化によって短いビット長で伝達できるという以上に、受け手が区別に悩まずにすむことで認識が速いと言うことが重要なのではないかと思います。
次回は、「あいまいさの少なさ」の予定です。
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