瀬戸智子さんの「瀬戸智子の枕草子」で「スローカーブを、もう一球」の感想が書かれていました。この話を含んだ同じタイトルのノンフィクション短編集の中に、山際 淳司の代表作ともいえる「江夏の21球」があります。そしてこの名前は、山際の作品だけでなく、この試合そのもの、9回裏の一連の攻防も指すものになっています。
実は私、その「江夏の21球」を友人と大阪球場で見ていました。1979年のことなので、年齢がばれちゃいますね。
近鉄側のスタンドで応援をしていたので、ノーアウト満塁になったときは、近鉄の逆転勝利と思いました。もちろん周囲の観客みなそう確信していたはずです。その一方で、もしかしたらこれでも逆転できないかも、とも感じていました (一緒に行った友人には言いませんでしたが)。関西に4球団あるなかで特に近鉄のファンという訳ではなかったということもありますが、江夏を野球選手として評価していたからかもしれません。試合が終わって、虚脱感に覆われて出口に向かう観客達を、ドラマのシーンを見ているような一種冷静な目で見ていました。
「江夏の21球」をその場で見ていたことは私の中でちょっと自慢できる出来事になっています。自分が戦った訳でもなく、演出した訳でもないのに、なにかおかしいですよね。
瀬戸さんは、
〜スポーツに取りつかれた男たちは、時として眩ばかりの光を放つ一瞬に出会う。と書かれています。
それは、ほんの束の間であるが故に、より純粋な硬質の
輝きに満ちている。〜
山際淳司が描いたのは、そんな一瞬の表情を見せる男たちです。
選手は、その一瞬が忘れなくて、自分を究める。
そして、私たちは、その一瞬が見たくて、
スポーツを観戦するのです。
ロマンをもとめて。
そう、そんな心に残る一瞬がいつもある訳ではないので、それに出会えたことが自慢になっているのだと思います。青山広美の野球マンガで「ダイヤモンド」という作品があります。その中の登場人物に、観客は歴史の証言者になりたくてここ(球場)へ来ている、といったような発言がありました(記憶はあいまいです)。その部分を読んだときに私は「江夏の21球」のことを思い出しました。
現在発売中のNumber 611に、江夏豊のインタビューが載っています。その中で、江夏自身が「江夏の21球」に言及しています。
プロは技術です。同時に、感情のある人間がやっているスポーツなんです。だからドラマが生まれるのだと思う。
...
あれは野球技術をぎりぎり駆使したものであったと同時に、古葉監督の采配への反発がつくり出したドラマでもあった。リリーフエースといわれた俺がマウンドに立っている。なぜこの上、救援投手を準備させるのか。なぜなんだ・・・・・・と。
さらに江夏は「最近は、これは凄いというシーンを見ることが少なくなったよね。」と言っています。
あの試合と比較しては選手がかわいそうですが、その後何回か試合を見に行っても、以前ほど楽しめなくなっています。確かに子供の世話をしながら見ているというのはあるのですが、それ以前に私自身の観戦する姿勢から違ってきているように思います。最近は「その一瞬」を求めるのではなく、結果だけがあればいいような感じになってきているのです。それは私だけではないかもしれない。
今プロ野球でいろいろ議論されていますが、「歴史の証言者になりたい」という欲求を掘り起こし、その欲求をいかに満足させるかという観点が忘れられているような気がします。
追加トラックバック
浮世風呂さん: それはないだろ読売さん:続プロ野球合併問題——組織硬直と全体戦略欠落の構図—
-- プロ野球をどう発展させていくかビジョンの必要性を訴えています。
なつきのティールームさん:近鉄と私。
-- 以前のような感動がなくなったことに関して書かれています。
コメント
Commented by rakurakuonsen at 2004-09-19 23:48 x
トラバどうもありがとうございます。江夏のコメントにある、「これは凄いというシーンを見ることが少なくなったよね」は、全くそうだと思います。記憶に残るシーン、感動を誰かと共有できるシーンを求めて、僕達はスポーツを見るのかもしれません。そ子から言えば、プロスポーツは「感動産業」。そういう視点を持って、プロ野球も未来を切り開いて欲しいものだと思います。
Commented by yoshihiroueda at 2004-09-20 09:28 x
コメントありがとうございます。歴史の証言者になりたい」という欲求をいかに満足させるかという観点が必要と書きましたが、自分で書いておいてさてその解はどこにあるのだろうかと思います。感動を与えることって難しいですよね。
Commented by jinsei1 at 2004-09-22 16:15 x
>感動を与えることって難しいですよね。
中々、仕組んだってそうは参りません。
全身全霊を打ち込んだ先の、「無」境地から、自ずと生まれ出た、
そんなものでないと、感動と共感は生まれないのでは---。
所で、そのものであるところの、「ジンセイ・パロ」のお目通りにござ~い。
Commented by yoshihiroueda at 2004-09-23 20:41 x
ええ、感動は真似ができない、というところから来るものと思います。イチロー、松井、努力の結晶です。昔は西鉄野武士軍団のように朝まで呑んで試合して勝つといった、別の意味で真似できない天才集団もいたのですが、いまはそれが成立する時代でもないでしょうね。残されているのは知恵でしょうか?
Commented by natuky55 at 2004-11-12 13:23 x
トラバありがとうございます。江夏の21球の時は
まだ子供だったのですが、鮮明に覚えてます。
私の友達はみんなマニアが多くて、
島本講平で野球貯金してた子とか、山田の防御率計算してた子とか、
玉川寿、中村勝広のファンとか(全員女です)地味でしたねぇ。
でもそれだけ当時のパリーグにはマニアックな何かがあったのかも。。
Commented by yoshihiroueda at 2004-11-13 08:03 x
★natuky55さん、子供は純粋に強いものが好きってところがあって大人にはあまり人気のなかった阪急ファンも多かったように思います。山口高志とか福本とか。それから今はそういえば野球好きな女の子って皆無のような気がします。サッカーはいそうなんですが。野球自体の魅力がないのか、経営が悪いのか、考えていかないといけませんね。
Commented by こじま at 2004-12-11 21:03 x
はじめまして。偶然、拝見しました。実は以前から疑問に思っていたことがあり、お尋ねするものです。私もあの近鉄VS広島の試合を大阪球場で見ていました。確かにおっしゃるように、近鉄は逆転できないのではないかという思いがありました。そして、あの江夏の21球と呼ばれる投球を目の当たりにしていました。疑問というのはあの時、江夏投手の投球がすごい、と感じた観客がいたのか、ということです。私は単純にスクイズを外された!石渡のぼけ!としか見えなかったのです。何年かして、山際氏の作品を読み、なるほどと感銘した次第です。あのとき、江夏投手の投球のすごさに気が付かれましたか?私は近鉄ファンですが、江夏投手は20世紀最高の天才投手のひとりとおもっております。
Commented by yoshihiroueda at 2004-12-12 01:17 x
★こじまさん、同じ歴史の証言者ですね。私だけかと思ってたんですが(ってそんなわきゃない)。
野球に限らず偶然が左右するところが大きいので、ひとによってはアンラッキーと思ったかもしれません。また江夏のすごさを感じた人も、一球一球のかけひきや江夏の内面の葛藤を理解してではなく、ノーアウト満塁を抑えたという結果にすごさを感じたのだろうと思います。もちろん私も結果にすごさを感じた訳ですが、もしこれが江夏ではなかったら単にアンラッキーだと思ったかもしれません。江夏のほんとうのすごさを知るのは後に山際氏の作品によってでした。