今日は憲法記念日ということで、新聞も憲法に関する記事が多い。
毎日新聞の「余録」 というコラム(「天声人語」みたいなもの)も憲法の話題。
余録:一つの世代が、他の世代に対して…
「一つの世代が、他の世代に対して、自らの問題を決する権利を否定してはならない」「後世の国民の自由意志を奪うな」というのは日本国憲法を起草したGHQの委員会でのC・ケーディス民政局次長の主張だったという
起草過程では将来も日本人が人権条項を改正できぬようにする案や、改憲に国民の4分の3の賛成を要する案が出たそうだ。「憲法押しつけ」の張本人のようにいわれるケーディスだが、それらには強く反対した。改憲の扉を日本人に残すべきだと考えたのだ
その彼は半世紀の後に「憲法は日本にとってベストだったと信じている。だが私自身は50年間も憲法がそのままの形で維持されるとは当時思いもしなかった」と語った。彼が残した扉を開かなかったのも、それはそれで日本人の自己決定の結果だ
改憲に向けての大きなハードルと考えられている国会議員の2/3以上の賛成だが、彼にとってみればまだ「改憲の道を残している」結果なのだろう。[追記] 紙面にしかないのだが、座談会があって、その中で、アメリカはこの条件で何度も憲法を変えているという発言があった。その意味で、変えられるけど変えていないという選択をしているのは日本国民だと言える。
もうひとつ同じく毎日新聞で、以下のような記事があった。
記者の目:憲法記念日 「3分の2」条項の効用=田中成之(政治部)
04年から政界の憲法論議を取材して実感したのが憲法改正のハードルの高さだ。両院の「3分の2以上の賛成」という発議要件を満たすには、自民、公明、民主3党の協調が不可欠。与野党対決が宿命の議会では極めて難しく、発議はほとんど不可能に見える。自民党は新憲法草案で「過半数の賛成」による発議を可能にし、ハードル引き下げをねらった。
しかし、私は「3分の2」の効用を主張したい。「憲法は国家権力を制限するもので、国民に義務を課すものではない」という基本的な認識が、特に自民党内で薄いからだ。一般に「国民の3大義務」と言われるが、勤労と教育は人生に不可欠な義務以前のものだし、納税義務の条文は「国民は法律によらずに納税の義務を負わない」と読むべきだ。
ところが、自民党草案の策定過程では「国防の責務」や「家庭を良好に維持する責務」など、国民に新たな義務を課すことが検討された。優勢だったこれらの意見が草案に盛り込まれなかった理由は、ひとえに改憲のハードルの高さにある。
改憲できない訳ではないが、簡単でない。ここに意味があるんだねえ。ほとんどの時代で自民党が過半数を握っていたので、もし「国会議員の半数以上」という条件だったら、この国の形はどうなっていたか分からない。「どうなっているか分からない」というのは、私が現在の憲法を守る立場だから「悪くなっている可能性が高い」といっているように見えるだろうが、上記田中記者の意見と同様、現在の憲法の条項そのものよりも、憲法の意味を守るという立場を守らねばならないと考えるからだ。
記者の目の続き。
起草にあたった与謝野馨政調会長(当時)や舛添要一参院議員らはそうした項目を次々に削り、中曽根康弘元首相直筆の前文素案も完膚無きまでに改変した。「太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴として戴(いただ)き」という中曽根案は退けられた。舛添氏は「情緒的な表現や歴史解釈は前文には入れない」などと指摘したのだが、中曽根氏は草案発表直後、親しい議員に「法匪(ほうひ)の議論だ」と不満をぶちまけた。舛添さんも結構やるもんだね。中曽根元首相の個人的な名誉欲で、この国の将来の方向性を決められてはかなわない。
「法匪」とは法律を悪用する役人や弁護士を指す。しかし、私はむしろそうした批判を受けるほど厳しい論議がなされたことが重要だと思う。結果、草案は9条以外は「微修正」程度の穏当な内容に収まった。9条にしても2項を削除して「自衛軍」保持を認める条文を新設したが、1項の条文は一字一句変えずに済ませ、党外に配慮した。imi