2004/08/03

多神教礼賛 (アニミズム礼賛)

遅くなりましたが、愛のまぜご飯さんの「分離フェンス」から、お約束していたトラックバックです。

上記記事にコメントした内容をすこし整理したいと思います。

宗教、特に一神教は、人の心を利用し、戦争に駆り立てる元凶のひとつという思いを日々強くしています。 ユダヤ教をはじめとして、イスラム教、キリスト教 (一部を除く)、オウム真理教 (補足: 松本智津夫に対する個人崇拝ですよね)、...

一神教は、自分の神が唯一であること、そしてそれを信仰することのみが安寧、幸福を得る手段だと教える。そうすることでしか信仰をつなぎ止められないのだとしたら、弱い宗教と言わざるを得ない。また、容易に (戦争に、金儲けに) 利用されてしまう点も弱い。

それに対して多神教は寛容です。とくに私の神様は、自然の中にそこらじゅうに存在しており、
・全てのものに魂が宿っている
・自分が自然の中で生かされていることを感謝するように
・自分の命も人の命も生き物の命も粗末にするな
(食べるためなら命を奪うのは仕方がないが感謝しながら食べなさい)
と教えてくれています。

これこそ誇れる宗教だよなー、でも人前ではいわないけどと思っていたところに、以下のような記事を見つけました。

毎日新聞 2004年6月5日 東京朝刊
オバさんの逆襲: 平和の砦=小林洋子

バックナンバーリストの1番下で、今にも消えそうなので、著作権法上まずいと知りながら全部引用します。世界平和のため見逃してくれよー。
オバさんの逆襲:
平和の砦=小林洋子
東京都目黒区にあるB幼稚園はキリスト教の幼稚園である。この4月から、しばらく園舎改築のため近くの仮園舎に転居しているのだが、その仮園舎というのは、何とお寺なのだ。 
お寺は宗教法人として税制で優遇されているから地域社会に尽くしたい。仏教だのキリスト教だのと堅い事を言わず、困ったときはお互いさま、という双方の合意。 
子供たちがちいさな手を合わせて神に祈るとき、賛美歌を歌うとき、伴奏はどうするのだろうか、まさかオルガンの代わりに木魚で拍子を……想像を膨らましてクスッと笑う。 
「こんなことは日本でしかありえないでしょう」と地区のユネスコ協会長は嬉(うれ)しそう。私たちはクリスマスには神の子の誕生を祝い、大晦日(おおみそか)は除夜の鐘を神妙に聞き、初詣では神社でかしわ手を打つ。そんな自分たちを宗教に対して無節操だと自ら揶揄(やゆ)してきた。 
しかし、良いではないか。それは「鷹揚(おうよう)」ともいうのだ。アメリカとイラクの泥沼の戦いをはじめ、世界のあちこちでは日夜宗教の違いによる諍(いさか)いや殺し合いが起きている。そんな殺伐とした世界の中で、宗派も教義も超えて「困ったときはお互いさま」とお釈迦(しゃか)様とキリスト様が仲良く並ぶ。そういう日本の文化を、私は美しいと思う。 
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない」。ユネスコ憲章の前文の思想を実現できるのは、力で征する米国ではなく、心で包み込むことのできる日本なのかもしれない。(コラムニスト)=毎週土曜日に掲載
いかがでしょう。これまで日本の宗教観は鷹揚だと言う評価はあったと思いますが、これこそが世界平和を実現する文化であると積極的に評価したものは見たことがないように思います。

人を殺せと命令する宗教は正しい宗教ではありません。
たとえジョンレノンが許しても、このuedaが許しません。

Nothing to kill or die for 殺したり命を捧げたりするのに値するものは何もない
And no religion too 宗教だってそう (生命を犠牲にするのに値する宗教なんてない)
"Imagine"より

追記: 私の神様はMother Natureと呼ばれています。記事のタイトルもちょっと変えてみました。

追加トラックバック

■ 瀬戸智子の枕草子さん 「宗教」
■ web-log nostalgiaさん 「11'09''01」
■ たまごの距離さん 「神を忘れて」
■ 仙波眞弓のココロさん 「私の宗教」
■ petite fleur de cabochard (PFCさん - コメントも戴いています) 「神は妄想だ−宗教との決別−」補足

コメント

night_in_tunisia の投稿: 2004年8月3日 12:01 PM
僕も一神教というかキリスト教は何か人を戦争に駆り立てる何かがある気がします。「人をあやめてはいけない」、と教えているはしから「異教徒は殺してよい」ですからね。同じ神を信ぜずは人に非ず、なのか。ところでライフログ使いまくりです。ご教示有難うございました。

yoshihiroueda の投稿: 2004年8月4日 4:23 AM
たぶん聖書には「異教徒は殺してよい」とは書いていないはずで、本文でちょっとだけ触れましたが宗教自体も利用されているのだと思います。ただ、利用される宗教も弱い宗教だといわざるを得ないし、聖職者がそれに対して何も抗議しない(しているのかもしれないが大きな力にはなっていない)のも、もともとその宗教の教義であると理解されても仕方がないのではないかと思います。いずれこのことも考えをまとめたいと思います。

heteheete の投稿: 2004年8月4日 9:58 AM
おはようございます。素敵な記事のご紹介ありがとうございます。八百万の神々を敬ってきたという歴史と、水に流すという気持ちを大切にしてきたおおらかな日本は、戦争仲裁の出来る唯一の国だと思っていたのですが、多国籍軍参加、九条改正に向かっているのがとても残念です。

plummet の投稿: 2004年8月4日 2:11 PM
はじめまして。ご意見には賛同します。が、ちょっと。一神教が悪いというよりも、その神様が「信徒しか救済しない(イスラム)」「民族しか救済しない(ユダヤ)」から偏狭になるのではないでしょうか。などとあちこち聞きかじりの知識からすると思えてきます。その意味で「救済」なんて概念が出てこない日本の神道(古神道)は仰るとおり特異ですね。自然崇拝型宗教の特徴でしょうか。その他、気になったのがオウム真理教の記述。オウムはインド仏教から派生しているようですので、一神教に含めるのはムリがあります。仏教は多神教というか神様がいませんから。

plummet の投稿: 2004年8月4日 2:12 PM
連続で失礼します。長すぎるって怒られてしまったので。コメントでnight_in_tunisia さんのおっしゃることは、キリスト教よりむしろイスラム、ユダヤに当てはまりますね。旧約聖書とコーランには、相手を限定するけれども「その敵をうち殺しなさい」という言葉が入っています(パレスチナとイスラエルの争いは旧約聖書のその辺りが一因のようで)。新約にはそれはなかったと思われますが、キリスト教徒の聖典はもちろん新約聖書です。むしろ「殺せ」と命じられていないのはキリスト教徒だけのようです。ちなみにイスラム教には「領土に攻め込まれたらたたっ殺して追い返せ」という「防衛ジハード」なる概念があるそうです。成人男子モスレムの義務だとかで。蛇足ながら、ヨーロッパには過去、イスラム支配でありながらユダヤ教徒、キリスト教徒も内包した王朝があったそうです。隣国の王朝に攻め滅ぼされたそうですが(隣国はキリスト教)

yoshihiroueda の投稿: 2004年8月5日 1:24 AM
★plummetさん、コメントありがとうございます。
・偏狭な一神教がよくないのではというご指摘はそのとおりだと思いますが、一神教で「信徒しか救済しない」ものでないのがあるのでしょうか。
・オウム真理教はわざとあげました。あげた理由も書こうと思って忘れていました。なぜ一神教に加えたかというと、松本智津夫個人崇拝だからです。仏教の一派のような言い方をしているのは知っていますが、仏教と全く関係のない教義 (というものがあれば) です。ほかにも個人崇拝になっている宗教は多くありますね。
・旧約聖書には「その敵をうち殺しなさい」という言葉が入っているとは知りませんでした。ありがとうございます。

plummet の投稿: 2004年8月5日 4:40 PM
 ははは、揚げ足は取らないでください。逃げちゃいます。
 記事本文だと、一神教が悪い、とストレートに言っているように読めたものですから、そうではなく「信徒しか救済しないといった部分で信徒自身が先鋭化して偏狭になる」ことがいけないのだろう、という提起の意味だったんです。ちょっと過程をはしょりすぎましたね、分かりにくくて失礼しました。
 要するに蛇足で示したように、先鋭化し偏狭にならなければ、一神教(という言葉も実はおおざっぱですが)の信徒同士が共存出来るわけですし、『一神教は、人の心を利用し、戦争に駆り立てる元凶のひとつ』(引用)という表現は厳しすぎるかなと思ったということなんです。
 ちなみに記事本文で挙げられているタイプの多神教だと、一神教と違って「神様に救済してもらう」という概念がなかったりしますね。その辺が大きな印象の違いを生んでるなと思ってます。

plummet の投稿: 2004年8月5日 4:47 PM
また連投すいません。

「その敵を〜」の部分ですが、旧約聖書は「民族を土地から追い出したやつら(事実上パレスチナ人のこと)は殺して、もとの土地へ帰れ」みたいに書かれてます。コーランでは「侵略してくるやつらは殺していい」と書かれてます。ユダヤとパレスチナが殺し合うはずですね。こういうのを乗り越えた共存国家があったというのが驚きです。ひょっとしてご存じないかたも見ているかもしれないので念のため、旧約聖書はキリスト教とはほぼ関係ありません。

じゃあこれにて逃げます。

yoshihiroueda の投稿: 2004年8月6日 6:22 AM
★plummetさん、補足説明ありがとうございました。素人の書いた素朴な感想ですから(といって逃げているわけではないですが)、大胆すぎる一般化があると思います。それに対して怒るわけでもなく認識不足を説明していただけるのは大人の対応だなーと思います。助かります。プロテスタントの教会へは行ったことがあり、牧師さんが新約聖書を引用して話をしているのは知っていたのですが、聖書は旧約と新約と一緒になって売られているので、旧約聖書を使う場合もあるのだと思っていました。ありがとうございました。今後もよろしくお願いしす。

祥 の投稿: 2004年8月11日 10:23 AM
場違いなコメントかもしれませんが申し訳ありません。
俺は宗教には否定的です。
宗教自体を否定しているわけではなく、俺の中に信じる宗教が無いという意味で。

俺は宗教や価値観はその人の中にあるものであって
影響されることはあっても
強要や批判されるものではないんじゃないかなと思います。
その人なりの価値観があり
その人なりの幸せや喜びがある。
時には悲しみを乗り越えるために宗教を必要とするのかもしれない。
しかしそれはその人の中に起きるものであって
他人が批判するものではないのではないかと思います。

宗教を持つ人が他の宗教の批判をしたり
自分の宗教への賛美や勧誘をすることも
争いへの引き金になってるのではないかと思います。
自分の信じる宗教を信じ、
他人の信じる宗教を認めることこそ
平和への道なのではないのかなと思います。

yoshihiroueda の投稿: 2004年8月11日 10:32 PM
★祥さん、コメントありがとうございます。
> 自分の信じる宗教を信じ、
> 他人の信じる宗教を認めることこそ
> 平和への道なのではないのかなと思います。
この点同意します。私の主張の趣旨も「他人の信じる宗教を認める」寛容性が重要ということです。
私の批判は、宗教そのものに対してではなく、他を認めない偏狭な宗教、人命や人権よりも宗教を重んじる宗教に向けられています。

小林洋子 の投稿: 2004年9月6日 3:57 PM
yoshihirouedaさま初めまして。毎日新聞で「オバさんの逆襲」のコラムを書いています小林洋子です。「平和の砦」をyoshihiroさんのブログでご紹介いただいてありがとうございました。
これは柿木坂にある「ベテル幼稚園」のお話で、「貸してあげた」お寺は「立源寺」といいます。子供たちが実際に木魚を伴奏にして賛美歌歌っているかどうかはまだ確認に行っていないのですが、もう今月の10日で仮園舎の使用は終わりになるようです(^-^)。
今日たまたま「小林洋子」の同姓同名でいかに沢山の方々がいらっしゃるのか試しに検索をしていましたら貴方様のブログと出会ってしまい、おそまきながらコメントを残させていただきました。読者の方とこんなコミュニケーションができるなんて、インターネットって素敵ですね!

yoshihiroueda の投稿: 2004年9月6日 11:29 PM
小林さん本人からコメント頂き、ありがたい限りです(最初は著作権侵害の警告かと緊張しました)。
> 読者の方とこんなコミュニケーションができるなんて、インターネットって素敵ですね!
はい。私はまだ交流が少ない方ですが、リンクを辿って行くと例えば平和の輪が無限に広がっているような錯覚さえしてきます。「新しい希望」といったら言い過ぎかもしれませんが。

PFC の投稿: 2006年7月26日 9:57 PM
はじめまして。heteheeteさんのブログから参りました。古い記事へのコメントで申し訳ありませんが、この記事の内容に共感しました。TBの代わりに自分の名前に記事のリンクをしました。言葉足らずですが、見ていただけると嬉しいです。

yoshihiroueda の投稿: 2006年7月28日 12:25 AM
★PFCさん、いらっしゃいませ。
PFCさんの記事拝見しました。平和を求める姿勢は同じだと思いました。この記事は昔書いたものですが、自分でも気に入っていて、あとからもトラックバック追加しています。

0 件のコメント: