東京・秋葉原殺傷:ネットにあふれた事件 目撃者ら情報発信、報道に新たな展開 (毎日新聞 2008年6月23日)
考えて始めた最初はこれ。
Nikkei Net IT-PLUS ガ島流ネット社会学 (2008/06/10) 秋葉原事件で融解した「野次馬」と「報道」の境界
多くの一般人がケータイで写真を撮っているのが問題になっていることを知らない段階で読んだ。
ここでは、映像を配信した人 (ジャーナリストでない一般市民) の「これはかなり楽しんでいたと思います」という正直な声が引用されている。また、ジャーナリスト側としての自分自身の「私も新聞社時代に何度も事件・事故現場を取材したが、ある種の興奮状態に陥ることは確かだ」という告白も載せている。この部分では差はないと言えるだろう。
DAYS Japan 2008.5月号では、ミャンマーで銃撃され亡くなった長井さんの写真でDAYS特別賞をとったラティーフ氏のインタビューが載っている。ラティーフ氏は長井氏の死に対して悲しみとジャーナリストとしての情熱に対する尊敬の念を示しながらも次のように語っている。
次の日に友人がホテルに来て『ニューヨークタイムズ』の一面の記事を見せてくれました。それから2日以内に、妻がインターネットから60以上の一面記事をダウンロードしました。掲載された写真を見て初めて、私はこの出来事が世界に報道されたことを光栄だと思いました。それは私が常に夢見ていたことだったからです。この日は私にとって特別な日になりました。ここにも正直な高揚感の吐露がある。
また、この源泉には使命感もあると思うのだ。俺がこれを伝えないと誰が伝えるのだ、という。確かに秋葉原には多くの人がいたので、自分が伝えなくてもという側面はあるだろう。しかし多面的な報道があることは良いことだし、写真は多くの中からベストショットが選ばれ生き残るという点では、伝える人が多くいて悪いことではない。
9.11のときのことを思い出した。最初はどうなっているのか分らない状態だったのが、だんだん提供される写真が増えてきて、衝突の瞬間の写真やビデオまででてきたんだったね。
ここでは使命感は同じという前提で考えていたのだが、「◆木偶の妄言◆」仁さん (やはりジャーナリスト) の記事「気持ち悪い人々」では、目の前で2人の友人が殺された人の日記をとりあげ、写真を撮る野次馬に対する不快感を表明している。
トラックにはねられた友だちを介抱していて、ふと視線を上げると周りは「カメラ、携帯、カメラ、携帯…」。やめてくれと言うと「無視された。嫌な顔もされた」そうだこれを見ると使命感があってやっている訳ではないとも思う。
そして、「about ・ぶん」ぶんさんの記事『「伝えること」の恍惚に潜むもの』で紹介されているこの記事
秋葉原無差別殺傷事件 “記念撮影”する傍観者たち (iza! 06/18)
では「記念撮影」という言葉が使われており、また最初の毎日新聞の記事では以下のような記述がある。
事件現場近くを歩いていた際に、ある男性が「犯人が捕まったぞ」と声を上げたという。周りには写真のコピーを求める人々が殺到。携帯電話の「赤外線送受信」を使うと、5秒程度で写真を自身の携帯に取り込むことができる。その場であっという間に容疑者の画像は不特定多数の通行人に広まったという。ぶんさんは表題からわかるように、「伝える」という意識をもって、なおかつそこでの自分の内面の高揚感を予測し戒めているが、これらの記事を見るかぎり、ブログなどで事件を伝えることを目的としたとは考え難い。
まずは使命感を意識することは重要だと思う。
しかしそれでも十分ではない。ガ島さんの記事にもどる。ここにこういう記述があった。
はてなブックマークには『マスコミが伝えると「報道の責務を果たす」になって、個人が伝えると「野次馬」というのは軸としておかしい』『「撮っていい人」と「撮ってはいけない人」を分け隔てているのは何だろう。カメラの口径?職業意識?倫理観?「報道」の腕章?そもそもそんなものがあるのだろうか』というコメントがあった。ここでコメントした人は疑問視しているが、私は「職業意識」と「倫理観」だと思う。
もしかしたらこのコメントを書いた人は「職業意識」=「使命感」として書いたかもしれないが、ここでは分けて考えたい。私がここで「職業意識」をあげるのは、プロとしてやるべきこととやってはいけないことをわきまえていることが重要だと思うからだ。「倫理観」とあわせて、「職業倫理」といったほうが良いかもしれない。たとえ使命感があったとしても、刑事が拷問で自白をひきだすことをやってはいけないのと同じことだ。
ジャーナリストとしての教育を受けていない市民が、ジャーナリストのまねごとをするなと言っている訳ではない。ジャーナリストだったらどう行動すべきなのかを考えながら行動することが重要なのだと思う。
その意味で毎日新聞の記事の以下の記述は肝に銘じる必要があると思う。
水島教授は「中継した人のブログから自問自答している様子がうかがえた。中継した人だっていつかは撮影されて配信される側になるかもしれない。誰もが本人の意思とは無関係に参加せざるをえないネット社会を我々は選択したわけだ。大切なのは、このように自問自答しながらネット社会での振る舞いを身につけることではないか」と話している。そしてそれは、今のマスコミのことを「マスゴミ」とよぶ批判精神を持った人ならば難しくないと思うのだ。他人には厳しく自分には甘いと言う姿勢で臨みさえしなければ難しくない。
次の記事はさらにいろいろな視点で書かれている。言及したかったが、ページ数が尽きた (そんなものないて)。また別項で、また宿題が... 汗。
CNET 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点: 2008/06/14
同じ空間を共有できていたのか−−秋葉原事件の撮影について
6 件のコメント:
ヒロさん、こんにちは!度々、文中リンク有難うございます!私もまだ色々未整理なままですが、とりあえず不正確だと思ってきたタイトルだけ改題しましたので、とりあえずお知らせまで。(汗) いつも有難うございます♪
★ ぶんさん、すみません、まだ頭の中を整理している段階でコメント、トラックバックいただいて。整理が出来たらトラックバックします。とはいえ、別の記事が優先されていて遅くなりそうです。
所謂、発信者のリビドーというやつですね。ライブドアPJのときも、尼崎の鉄道事故のときに批判が起きましたっけ。あと、映画試写会に群がる市民記者たちもいます。そして、プロの記者たちも発信者のリビドーを隠さぬ人がいる。そういえば、CXの安藤優子は、ペヨンジュンに舞い上がっていたっけ。それって、相手に失礼なはずなのだが…。
★ スポンタ中村さん、いらっしゃいませ、というか有名人がなんでこんな辺境ブログに... しかも書きかけの記事にコメントをいただき恐縮です。あわてて完成させました。ガ島さんの記事を見てプロにもそういう高揚感があるんだなと認識をあらたにしました。他の職業のことを考えれば当然なんですが、公共性の高い仕事、それにより傷つく人が少ないくない仕事といった意識があって別物のような感じをもっていました。
TB有難うございました!色々な記事を取り上げて、できるだけ多角的に捉えようとされている姿勢に好感を持ちました。私の方もいまだに未整理ですが、その現場で写真を撮るという行為は、それ自体で直ちに批判されることではないような気がしています。面白おかしく、純粋な野次馬気分で撮ることには抵抗がありますが、全ての人がそうではないとも思います。9・11のような場合は特に。ただ撮った写真をブログなり、ネットなり、或いは友人に送る、なりという行動に移すときに、問われるものがあるような気がしています。何の為に写真を送るのかという問いを自分自身に厳しく問う姿勢が必要なように思います。自分に問うたときに、送るべきでないと思ったら、送りたいという誘惑に負けたくないなと思います。いざとなったら送りまくったりしそうな自分が怖いのですが、、、(汗)。
★ ぶんさん、遅れて申し訳ありません。被害者の感情を考えると写真を撮る行為自体にも批判される要素はあると思います。面白半分だということが分ると写されるのに抵抗あるでしょう。最後の佐々木俊尚さんの記事では、カメラを忘れてケータイで写真をとる記者の話が載っているのですが、これは象徴的だと思います。結局見た目で判断するしかないのかというか。
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