以前、江川達也の「日露戦争物語」を紹介しました。このマンガのテーマは「歴史に学ぶ」、「成功は失敗の始まり」だと考えています。
現在ストーリーはまだ日露戦争に達しておらず、日清戦争の黄海海戦 (1894年) を描いています。3週間くらい前の回のタイトルは「愛国心と歴史認識」。一旦戦闘を描くのを中断して、軍歌「勇敢なる水兵」の歌詞の引用から始まります。
傷を負った水兵が、敵艦の状況を訊く。上官は、まだ沈没していないが戦闘不能になったと答える。それを聞いた水兵は安心して死んでいく。
ちょっと長いですが、一部だけ削ると真意が伝わらないと思いますので、テキスト部分をそのまま引用します。
日清戦争 黄海海戦の様子は
この「勇敢なる水兵」という
軍歌として
多くの日本人に歌われ、
日本人の記憶に
刻み込まれた。
しかし、
この軍歌は
この海戦の実像を
知らせるものではなく、
日本人の戦意を昂揚させ、
愛国心をかき立てる
歌でしかなかった。
ここでまた一つ
物語が生まれ、
日本人の現実を直視する目が
失われていくのだった。
この戦争の実像を知り、
現実を直視し、
教訓を引き出そうとする者は
100年以上経つ現在でも
数少ない。
この物語の主人公
秋山真之は、
現実を直視する
努力を忘れぬ
男であるため、
当然の如く
この戦争の後に
この戦争の実像を研究し、
教訓を引き出そうとした。
現実を直視し、
平時における
過去の戦史の
たゆまぬ研究による
未来の戦術・戦略の
独創こそが
軍人にとって、
士官にとって、
参謀にとって、
指揮官にとって、
最も重要な
仕事である。
かたや
物語を作る者は、
現実を歪め
気持ちよくなるように
脚色を加え
戦争を意図的に美化していく。
国民国家の原動力、
愛国心を高めるため、
現実は歪められ、
人々の心に
美しく広がっていく。
-- 山本権兵衛が、海戦史を編纂する小笠原大尉に美談に仕上げることを依頼するシーン
戦争に勝利するためには
兵達の戦意を
昂揚させなければならない。
志気の衰えは
敗走を誘発する。
戦場では
嘘をついてでも
やる気をかき立てねばならない
場合がある。
兵たちに
共通の妄想 (ファンタジー) を
信じ込ませねばならない。
しかし戦争で
現実を歪めて認識した者に
率いられた軍は、
惨めな敗北が
待っているのである。
この時代
有能な将官とは、
現実を確実に
把握できる者であり、
なおかつ
兵卒の心をつかめる者、
妄想を操れる者で
なくてはならなかった。
-- 今は国民に事実をそのまま伝える訳にはいかないと考える山本権兵衛の心中
しかし
自らが
妄想の虜になってはならないのだ。
-- 1941年、最初に真珠湾を叩けば早期講和に持っていけると考える連合艦隊司令長官山本五十六の妄想
国民国家の原動力、
愛国心を高めるため、
数多の
戦場の物語が
作られていく。
-- 死んでもラッパをはなしませんでした、玄武門一番乗り、勇敢な水兵
しかし
この愛国心が
この50年後、
日本という現実を直視できていないのは、今の韓国、中国の姿だと思う。
国民国家を
滅亡の危機へと
追いやるのである。
一連の反日暴動、
それを謝罪しない中国政府、
国際世論に慌てる中国政府、
アメリカが信頼していないことを伝えられ怒り出す韓国政府、
それらを伝える報道と、論じる評論等により、
日本人は、これまで歪んだ歴史認識を持っていたことを少しずつ知り、
事実を認識したいと考えるようになってきたと思う。
ただ、これによって育ってきた愛国心が
今の中国や、太平洋戦争前の日本と
同じレベルであってはいけないと思う。
偏狭な愛国心でなく、
国際社会にどのように貢献できるか、
国際社会をどのように導いていくか
考えていかなければならないと思う。
日本だけでは生きていけないのだから。
「国際社会をどのように導いていくか」って、妄想かもしれませんね。
2 件のコメント:
うん、uedaさん、同感です。>日本だけでは生きていけないのだから。根本的にはその認識ナシに日本はやってはいけないですしね。>国際社会をどのように導いていくか妄想なのかもしれないけれど、気概は持ちたいカナ。東アジアには、きっと冷戦後の新たなルール設定が求められている時期なんでしょうね。だから、ぶつかる。摩擦が起きる。そこで、言うべき事を言いながら落としどころを探る。譲歩だけが進むべき道ではないと思うのです。それでは逆に禍根が残る。大きなルールは変えられませんが、しっかと生きていく道を考えていいのではないかと思います。
★ rakurakuonsenさん、同意頂きありがとうございます。> 言うべき事を言いながら落としどころを探る。譲歩だけが進むべき道ではないまさしくそう思います。そしてその「言うべきこと」というのが、一国の都合や利害ではなく、国際社会で共通に受け入れられる価値観でなければならないと思うわけです。
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