裁判員制度は、国民が政治の一つの柱である司法に関与することで、民主主義をより良く実現する方策として打ち出されているものと思う。たぶん。
しかし、ディベートなどを教育されていないところに導入するというのは次期尚早だという意見があり、私もそれには同意する部分が大きい。まあショック療法としてはありかもねとも思うが。
ただ問題はディベートだけではないと思う。検察側が法律をちゃんと適用して立件したということに疑問をもたないことも問題となるだろう。
なにかの間違いで自分が被告席に立つかもしれないということを考えた方が良い。そこで裁く人達は、そういう疑いを持たない人達かもしれないのだ。
情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)カナダのメディアリテラシーに学びたい〜ここまでやるか…
カナダの教育は、政府はあなたたちをだますかもしれませんよ、という教育、日本の教育は、政府は信用できますよ、という教育。どちらが、本当に市民にとって有利な政府をする意欲があるかは明白だろう。
騙されるかもしれないという認識をもって、政治に接することで、政治に対する評価は厳しくなる。そのような厳しい評価に耐えた党が政権を取る…すばらしい。追記: この記事は「カナダde日本語」(美爾依さん) の「植草一秀氏の痴漢冤罪事件」で知りました。植草一秀氏の事件に関しては、「転び公妨」の最初の記事で、「2回目はもうどうしようもないと思ったのだが...」と書きましたが、2回目を擁護する人達が存在するという事実、主張する内容から、既存メディアが伝える内容を鵜呑みにしてはいけないと思うのだ (もちろん擁護している人の主張も鵜呑みしている訳ではない)。
裁判員制度も権力を監視する仕組みとして捉えなければならないと思う。そのためにはカナダのような教育方針がなければならないと思うのだ。
冤罪に関しては、特に痴漢冤罪に関しては男性諸氏は不安を持っていると思う。植草一秀氏の事件とは別の日常のレベルで起こりうる話で、被害者の証言がそのまま証拠として受入れられる以上、疑いをはらす方法はないに等しい。ましてや裁判員から印象でエロオヤジ認定を受けたりしたらどうしようもないと思う。
13 件のコメント:
難しい事だから専門の方にお任せしてきたわけで
何も知らない国民が参加することで
それがよりわかりやすくなっていくのでしょうか。
私自身はとても興味があります。
裁かれることはたぶん無いだろうから(このへん楽観的)
裁く側になって法律や制度についてもっと知りたい
どういう仕組みでどういう動きなのか知りたい
と思っています。
カナダの教育がこういうものだって知りませんでした。素晴らしい!
★ そふぃあさん、
裁判員制度になったら検察側も弁護側も分りやすい説明を心がけるでしょうね。それは良い点だと思いますが、アメリカのように陪審員の深層心理にある差別意識に訴える方法が用いられるようになるのが懸念です。日本人はアメリカ人以上に情緒的で、論理的な思考の教育も足りないので。
それから、裁かれることはたぶん無いだろうと思っているところに落とし穴があるというのが本文の主旨です。
★ ぶんさん、
民主主義が何によって支えられているかということを理解し、為政者も自分の地位・利権よりも民主主義を守ることを重視する姿勢はうらやましいです。
>なにかの間違いで自分が被告席に立つかもしれないということを考えた方が良い。そこで裁く人達は、そういう疑いを持たない人達かもしれないのだ。
私も、裁く側よりも裁かれる側に立って、法律を考えてみたいと思っています。ぶんさんのところにコメントされている方で、裁判員制度に備えて積極的に傍聴に通って勉強していらっしゃる方がおられるのですが、これは真似させて頂かなくてはいけないなぁと思っているところです。
★ らふぃさん、
なるほどカナダのアイデンティティを追求する姿勢というのはよく分ります。またそれを意識している政府、国民も尊敬に値します。アメリカの良い点まで否定するところまで行っては困りますが、アメリカにはまだまだ改善するところがありますからね。環境問題でもアメリカとは違うということを見せてくれると大きく前進しそうです。
また、裁かれる側に立つというのは、今のマスコミの姿勢が大本営発表に偏っている点では重要なことだと思っています。また、ワイドショー化というか、マスコミも情緒的なアピールが取り上げやすいという点にも罠が潜んでいると思います。
>裁かれることはたぶん無いだろう
現実として裁かれる可能性よりは裁判員になる可能性のほうが高くないでしょうか?
という意味です^^
被告席に立つ前に裁判員として裁判を学んでおきたいなと。
やはり傍聴から始めよ、ですね・・。
裁かれる側にたつということは心情的に偏った判断をする危険性があるかも、ということなのかしら。
公平に裁く、罪状と量刑のバランス、前例の壁
難しいけど、学び甲斐はありますね。
★ そふぃあさん、
なるほど。すみません、誤解していました。
どちらの側に軸足をおいたとしても裁判のプロセスを学ぶのは重要なことと思います。だけど多くの人は (私も含めて) どうにかして避けたいと思っているんじゃないかな。積極的に学ぼうとしている姿勢には頭が下がります。
私は自分自身が裁かれる側になる可能性はあるだろうなぁ・・・と思います。
仕事柄、機密情報なども扱うから、何が起こるか分からないですし。
日本の明治以降の教育って、とにかくお上は正しい、お上に従え・・・って教育でしたよね。
それは今も変わってないと思います。
だから、日本における陪審員制度もやっぱりお上に有利なように得するように仕向ける制度だと思います。
なんだかなーと思いますが、決まってしまったものは仕方ない、できることをしていくだけですね(^−^)
★ すぷりーさん、
お上に従うようにする教育って、一貫してずっとというより、ますますその傾向が強くなってるんじゃないかと思います。「愛国」って言葉はその代表じゃないかと思います。
裁判員制度も、本来は自分で考えることを促すものだと思うのですが、今のままだと国民同士が縛り合うことでますます国民のコントロールがやりやすくすることが狙いのようにみえて仕方ありません。
植草氏擁護派の意見には私も注目しています。
もちろん鵜呑みにということではなく、どちらが本当なのか自分で見極められる時が来た時には、判断できるようにという思いからですが…。
擁護派の意見を聞いていると、日本が法治国家で言論の自由がある国とはとても思えなくなります。言論の自由というのは、メディアが弱い人々のプライバシーを踏みにじり、スキャンダルを貪ることなどでは到底なく、公権力に物申す権利を保障することだと思うのですが、植草事件は万一にも日本がその保障を蔑ろにしている可能性を示唆するものだからです。情けない罪状だけに、公に議論することさえ憚られることも、まさか策謀した側の思う壺なのだろうかと思ったり…。考える程に暗澹とした思いがします。
★ らふぃさん、
事件や問題が多過ぎて、ひとつひとつ点検できないという状況も便利に使われていると思います。札幌のデモに対する暴行逮捕、グリーンピース、奈良の騒音おばさんなど、マスコミの報道だけではない事情もあるようです。そして、植草はそういう性癖を持った人間だから、グリーンピースは海賊テロ集団だから、と予断で判断する人々 (私もその中に入っていないとはとても言えない)。もっとみんなに考えさせるマスコミであってほしい。山本モナはもういいって。
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