森巣さんが、卒業式における国歌斉唱問題で、起立斉唱しない人は自分の考えを持ってそうしているのであり、その人達を処分するのは教育の場に相応しくないという主旨のことを書いていた。
[今ソースが確認できないのであとで追記 → 最後に追記しました。]
ここは森巣さんの認識は正しくないと思った。「愛国」教育の目的は盲信する人間を作ることだろう、もちろん教育する側はそういうことは言っていないけどね。
そしてそれはかなり成功していると思っていた。
内田樹先生のブログに「アメリカ人はどこまで」という記事があった。はは、アメリカ人はよその国のこと知らないんだよな、と思いながら読んでいたら、後の方は日本の若者の話になっていた。最後の方で、
今の日本社会では「知性的にならない」ことに若者たちは知的エネルギーを集中している。
無知は情報の欠如のことではなく、(放っておくと入ってきてしまう)情報を網羅的に排除する間断なき努力の成果である。
「知性的になってはならない」という努力を80年代から日本は国策として遂行してきたわけであるから、これはスペクタキュラーな「成功」なのである。
と書いてあった。
マスコミのこととか、死刑制度のこととか、裁判員制度とか、格差社会とか、左翼と右翼のこととか、最近いろいろなことがつながっていると感じます。
追記: 森巣博氏の記事はCOURRiER Japon 2008年5月号でした。前半は御自身の息子さんのお話。移民である森巣氏の息子さんは集団行動が出来ないのだが、オーストラリアの教育関係者は、息子さんの才能を発見し、環境を与え、15歳で大学、18歳で大学院に入学した。そのころオーストラリアには飛び級の制度がなかったので、既存の規則よりも子供の才能を伸ばすという信念を優先させたということになる。
これに対して日本の教育はどうなのかということが後半の主張になる。
・神奈川県教育委員会は君が代斉唱の際に不起立などの行動をとった職員は罰するとした。
・学校運営に大きな支障があるからという理由である。
・それがどのような支障というのであろうか。おそらく思想統制なのだと思う。
・不起立の職員は「愛国心」に欠けているということであろう。
・思想改造が必要と判断しているのであろう。東京都などは不起立の教職員を、北朝鮮のように「研修所 (= Re-education Camp)」に送り込んでいる。
・「愛」の反対は「憎悪」ではなく、「無関心」だ。[心理学者の共通認識]
・無関心な教職員は、命ぜられるまま起立することであろう。
・信念に従って不起立を貫く教職員たちは、(信念に従って起立する教職員と同様に) 「愛国者」だと思う。
不起立だけでは、「愛」と「憎悪」の区別はつかないだろう。しかし、国を「憎悪」しているならば、教職について次世代の日本人を育てることはしていないはずである。おそらく、思想統制を進める (= 自分で考えることをやめさせる) 日本の現状を憂いての行動だと思う。
私の「愛国心」も、そういう愛国心だ。